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鬼譚・妖怪譚としての「響鬼」について

 鬼譚・妖怪譚としての側面から見た「仮面ライダー響鬼」の考察という宿題にお返事しようとして書き始めたら、どんどんどんどん長くなってしまい、このままでは一冊の『響鬼論』になりかねないよ、どうしたものか……と思っていたところに、銀翔龍さんからまさに正鵠を射たというべきかカモネギというべきか(笑)なコメント(「大阪でも響鬼」および「響鬼をめぐる問題について」のコメント欄参照)をいただきましたので、これにお応えする形でポイントを絞って御説明してみたいと思います。

 私見によれば、鬼譚・妖怪譚としての「響鬼」の世界観を支える基本原理は、陰陽道や風水などでおなじみの「陰陽」二元論であろうと思います(さらに云えば陰陽五行説ということになりますが、そこまで言及すると煩雑になりますので、ここでは省略します)。

陰陽(いんよう)
 原義は山の日かげ(=陰)と日あたり(=陽)で、万物生成の根元である気(き)の両面をあらわす。受動的な陰の気は静・重・柔・冷・暗などを、能動的な陽の気は動・軽・剛・熱・明などをそれぞれの属性とし、万物は陰陽の交合によって生じ、その消長によって四季が形成されると考えられた。「陰陽」の二元的原理は、古代より中国人の世界観や思考法の根幹をなしてきた。(東雅夫編『陰陽師伝奇大全』所収の「陰陽道用語辞典」より)

 陰陽師とは本来、こうした万物生成、大自然の運行の根源である「陰陽」の両気をつかさどる「師」(=マイスター)を意味していたと考えられます。
 たとえば90年代に一大ブームを巻き起こした陰陽師伝奇物の小説や映画に登場する大陰陽師・安倍晴明が、印を結んだり呪文を唱えたりして邪鬼や妖魔の類を退散させるのは、そうした存在が象徴する穢れ=「気」の乱れを清め祓い、鎮め正して、陰陽のバランスを回復させる営為であったわけです。
 「響鬼」の根幹を成すのも、「陰」の気の乱れや過剰を体現する「魔化魍」や「姫と童子」を、「陽」の気を体現する「鬼」たち(本来は「陰」であるはずの鬼が、何故「響鬼」においては「陽」を体現するのかという興味深い問題を論じ始めると、これまた長くなりますし、今回の趣旨からは微妙に逸脱する気もしますので、ここでは触れないことにします)が清め鎮める物語――鬼と妖怪をめぐる物語の一典型である陰陽師伝奇譚の現代的バリエーションであると解釈できます。
 その際に「清めの音撃」すなわち音楽と楽器が呪具として用いられる点も、まことにもって陰陽道の原理にかなっています。
 これについては、以前「ダ・ヴィンチ」の「岡野玲子『陰陽師』特集」に寄稿した拙文の一節をご覧ください。

 陰陽道と音楽とが不即不離の関係にあることは、四書五経の一である『礼記』に含まれる「楽記」(中国古代の音楽理論を集成した書物)中の次のような一節にも明らかだろう。
「君子が礼楽を用いて天下を治めるときは、天地はその能力をいっそう盛んにし、いっそう和合しようと欲し、陰陽二気がよく調和して、万物を育成させるから、草木は茂り、若芽は萌えたち、鳥は羽ばたき、獣は生まれ、虫はうごめき……」
 要するに音楽には、陰陽道の根本をなす「陰陽」の二気を正しく循環させる霊妙な力があるというわけだ。皇室の行事や神社の祭礼で雅楽が奏されるのも、元をただせば、こうした東洋的音楽神秘主義に由来する。(東雅夫「陰陽師と音楽」より)

 さて、第1話から第29話までの「響鬼」には、こうした陰陽師伝奇譚の流れを汲む世界観と斬新で魅力的なアイディアの数々が、驚くほど首尾一貫した形でドラマの細部にまで――いろいろな意味で「和」のテイストを重んじた演出と脚本はもとより、個々のキャラクター設定や大道具・小道具の類、圧倒的だった屋久島の大自然(第1・2話)をはじめとするロケーション等々、本当に隅々にまで、細心の注意とあふれる創意工夫をもって反映されていたように思います。
 「鬼」と変ずる超人的能力の持ち主が、打楽器、管楽器、弦楽器による音撃によって「魔」を祓い清めるという画期的アイディアは云わずもがな。陰陽道の流れを汲む山岳宗教・修験道の本場である吉野が、鬼および猛士の本拠地とされている点といい、師のもとで修業研鑽を積む(=鍛える)ことで超人的能力を身につけ、免許皆伝で「鬼」になるという点といい、支援組織「猛士」に魔化魍のデータが文献として蓄積され、それらをもとに気象条件その他を勘案して魔化魍の出現時期や形態を予測している点といい……ディスク・アニマルが、陰陽師の使役する「式神」の進化形であるとされている点ばかりが、「響鬼」と陰陽道や修験道との接点ではないのです。
 一方の「魔化魍」や「姫と童子」についても、「傀儡」が杖を大地に突き刺す(きわめて呪術的にして創世神話的ですらある行為!)ことによる誕生の場面や、音撃を受けて木の葉状に四散する死の場面は、彼らが母なる自然の懐から誕生し、またそこへ還ってゆく精霊的な存在であることを如実に示していました。
 魔化魍たちが「東雲のオオナマズ」「大洗のアミキリ」などと、それぞれ具体的な地名を冠して呼ばれ、また出現場所によって、その形態や性質に差異が生ずるとされているのも、そうした設定をきちんと踏まえていて実に秀逸でした。
 また、初期の魔化魍が、自然界に実在する生物の巨大化(バケガニ、オオアリ等)か、キメラ(=合成獣/ツチグモ、イッタンモメン、ヌリカベ、オトロシ等)として造形されていたのも、彼らが自然界の気の乱れや歪みによって生ずる存在であることを強調するうえで非常に効果的であったと思います(もっとも、その後登場した「夏の魔化魍」は、一転して天狗や河童、怪猫といった伝統的妖怪の姿態を踏襲していたわけですが……)。
 魔化魍の養い親として、姫(陰)と童子(陽)というファクターをわざわざ介在させているのも、同様の効果を生んでいたと云えるでしょう(この点については銀翔龍さんがコメント中で、とても興味深い指摘をされています)。毎回、同じ役者さんによって演じられることにより、彼らが「個」としての存在ではなく、循環変容する自然の営みの魔的側面を体現した存在であることを表現していたのも、また男声と女声を入れ替える演出により、両性具有性と異人性を際立たせていたのも、卓抜なアイディアでした(これには姫・童子役の両俳優の好演も寄与していると思いますが)。
 彼らが人を襲う目的が捕食のためであるというのも、自然界の食物連鎖に則った行為であると云えます。このため魔化魍と姫・童子には、従来のライダー怪人のような邪悪さや陰惨さ、そして人為的性格が稀薄であり、その脅威や恐怖は、むしろ自然災害や野生動物がもたらすそれに近いものとして描かれていたように思われます。
 かねてより、陰陽道や修験道、あるいは密教といったオカルト・ジャパネスクの系譜と文芸作品との関わりに着目し、『陰陽師伝奇大全』や『稲生モノノケ大全』をはじめとするアンソロジーを編んだり、雑誌『幻想文学』『幽』誌上で関連する特集を組んだりしてきた小生が、この画期的なドラマにたちまち魅せられたのは申すまでもありません。
 また、『響き交わす鬼』の関係者で、「響鬼」の物語を積極的に評価されたり、あるいは関心を寄せられたりしている作家諸氏――加門七海さんと霜島ケイさん、そして京極夏彦さんが、いずれも当代における陰陽師伝奇譚の卓越した担い手であることも、決して偶然とは思われません。

 さて、それでは30・31話に登場した魔化魍「カシャ」は、これまでに指摘したような特質を備えた存在として描かれていたでしょうか?
 養い親となる姫・童子が介在することなく、自然から切り離された実験室で誕生し、唐突に町中に出没しては、たまたま遭遇した通行人を喰らうのではなくただ焼き殺して去ってゆく……同じく町中に出現した魔化魍であるオオナマズの回(第17・18話)の、周到きわまる描写や演出の数々と較べても、その異質さは歴然でしょう。
 また、その造形も、従来の3パターン(実在生物の巨大化、キメラ、既成の妖怪)のいずれとも判別しかねる、なんとも中途半端な代物でした。
 そして続く第32話――轟鬼が口にした次のセリフに、小生は、自分の判断が誤っていなかった、との確信を深めた次第です。

 「姫も童子も全滅したってことッスかねえ、俺たちけっこうやっつけたし……」

 第29話までの「響鬼」物語の基本設定に照らせば、免許皆伝を許された「鬼」である轟鬼が、たとえ軽口としても、このような言葉を口にすることは、ありえないはずです。
 何故なら、姫・童子が全滅するということは、陰陽二元論をベースとする「響鬼」の世界観そのもの――年々歳々、生々流転してやまない鬼と魔との陰陽響き交わす営みを否定することにつながるのですから。

 リクエストにお応えする形で、鬼譚・妖怪譚としての「響鬼」の特質について、ごく簡単にではありますが管見を記しました。もとよりこれが定説であると主張するつもりはありませんし、実際、銀翔龍さんの書き込みをはじめ、興味深い解釈がすでに多々存在します。拙稿ならびに『響き交わす鬼』を叩き台に、こうした側面からの「響鬼」論議が今後いっそう高まり深められてゆくならば、本望であります。

陰陽師伝奇大全
東 雅夫編 / 浅井 了意〔ほか〕著 訳
白泉社 (2001.1)
この本は現在お取り扱いできません。
大江山幻鬼行
大江山幻鬼行
posted with 簡単リンクくん at 2005. 9.25
加門 七海著
祥伝社 (2000.11)
通常1-3週間以内に発送します。
鬼族狩り
鬼族狩り
posted with 簡単リンクくん at 2005. 9.25
霜島 ケイ著
小学館 (2003.3)
通常2-3日以内に発送します。
魍魎の匣
魍魎の匣
posted with 簡単リンクくん at 2005. 9.25
京極 夏彦〔著〕
講談社 (1999.9)
通常2-3日以内に発送します。

投稿者 東 雅夫 : 2005年09月25日 15:03

コメント

公式に認められることのない「ボクの脳内設定」に、
新体制の作風が合致しないから気に入らないだけじゃないですか!

そこまで映像化されてない部分を、
個人的趣味で補完してしまうと、
高寺氏がPを最後まで担当していたとしても、
「裏切られた!」と最後は感じていたかもしれませんよ。

カシャに関しては、「化けギツネ」でいいんじゃないですか?
または「お稲荷さん」。
そう考えれば、町の神社にいけば居ますし、
単独で出現しても問題ないような気がしますが。

新体制の響鬼にも、以前と同じように脳内補完してあげてください。

投稿者 汁吉 : 2005年09月26日 00:17

 一説には、高寺氏がシナリオを徹底的に直しまくり、
キャラクターのデザインや演出にまで口を出したために
スケジュールが大幅に遅れ、さらには山中ロケ・CGの
過剰露出のために予算も大幅オーバーしたのが更迭の原因
だと聞いています。来年のライダー(ライダー誕生35
周年記念作品)の準備もある中、高寺氏の「負の遺産」を
押し付けられて時間と予算のない中で精一杯の仕事をして
いる白倉氏に対して、御自身の番組解釈と現時点の番組
の描写が異なるからといって一方的に非難するのは
如何なものなのでしょうか。

投稿者 ? : 2005年09月26日 01:42

失礼ですが東氏はもう一度、ご自身の大好きな1話から29話、公式サイト、をじっくり観たほうがいいのではないでしょうか。
どうも曲解している部分があるように感じられます。
公式や番組などで語られていない部分を「こうではあるまいか」と考え楽しむのはいいですが、それが違ったからといって「これは響鬼ではない!」などと思うのは汁吉さん?さん同様いかがなものと思います。

もし、すべてを観た上でこのような考察にいたったというのであれば、高寺プロデューサーがおられた時期に登場した姫と童子と同じ顔を持つ洋館の紳士たちについてどのように考えておられるか是非きいてみたいものです。

投稿者 しろ : 2005年09月26日 05:15

いち視聴者である自分は、例え制作側の内情がどうであろうと、それに関与する気も、関与する事もできないので、予算云々という点には全く関知致しません。
解っているのは、見ていて「雰囲気が変わってしまったぞ?」という事だけであって、その後に知りえた内情云々は、あくまで蚊帳の外から見えた事でしかありません。
その上で東様の前回のコメントを知るに至り、そして今回のリクエストに対するコメントを読ませていただき、納得致しました。
違和感の正体は、そういった事の「ずれ」だったのか、と。
 
東様はちゃんと文末に主張する気はない旨を明記されてますし、そもそもリクエストに対してのアクションかと存じます故、それに対する批判その他の件に対して特段の反応を示されないであろう事は容易に想像できます。
あえて自分の感想を申し上げさせていただけるのならば、一言。
東様のおっしゃる「響鬼の特質」に魅かれて数年ぶりに特撮番組を見始めた自分にとって、今回の路線の変更は誠残念極まりないものでした、と感じている次第です。
長文かつ駄文にて、失礼致しました。

投稿者 Jin Mazaki : 2005年09月26日 09:03

陰陽道色や修験の雰囲気は強く感じていましたが、それが魔化魎にまで密接に関わっているのかもしれない、というのは目からウロコです。なるほどなぁ。ますます旧・響鬼が好きになってしまう(笑)。と、同時に、あの恐ろしいほど格好悪い装甲響鬼が、何故あんなにもダサいのかが判った気がします(笑)。

東先生の論考を読み、何故自分がこうまで響鬼に強く惹かれたのか、納得した気がしました。
響鬼は、ただのヒーローものというだけでなく、背景世界に東先生が仰った内容のような含みや奥行きを視聴者に感じさせる作品であり、同時にそういった妖怪的な視点に興味のない人間でさえ楽しめる、まさに懐の深い作品だったんだな・・・と。


ですから、汁吉さんの
>公式に認められることのない「ボクの脳内設定」に、新体制の作風が合致しないから気に入らないだけじゃないですか!

とか、

?さんの
>御自身の番組解釈と現時点の番組の描写が異なるからといって一方的に非難するのは如何なものなのでしょうか。

や、しろさんの仰ってる事は、東先生の仰ってる事とは、根本的に違うのかな、と思います。


東先生は、あくまで東先生なりに感じた『響鬼世界』を仰っただけで、こうじゃなきゃ響鬼じゃない!とは一言も言ってません。

例えば、誰だって人を好きになったら、あの人はきっと、こういうモノが好きじゃないだろうか、とか、家ではこんな感じだろうか、などと想像したりする事があるかと思います。そうやって自分の中で、好きになったその人の事を反芻し、更にその人を好きになっていく、というような事を、多かれ少なかれ皆さん経験しているのではないでしょうか?ところがある日その子が突然イメチェンしてしまって、それがまた自分の嫌いなタイプの雰囲気に変わった、てな事もあるかと思います。前の、髭の生やしてた方が良かった〜とか(笑)。

今回の響鬼の一連の騒動はまさにそれと同じなのないでしょうか?

その子(響鬼)に対してどんな想像、妄想を抱いていようが、それは個人の勝手である事は重々承知なんですが、それでも今回のイメチェンは今までとあまりに違いがありすぎた。そして何より最も問題なのは、そういった違和感を感じた人間がかなりの数にのぼるというところではないでょうか?違和感を感じた人間がきわめて少数で、例えば東先生お一人だけなら、先生がどれだけ「変わった!」って主張しようが、「あらあら、先生ったら熱吹いちゃって」ってな感じで終わっちゃいますが(笑)、そうではない、と。

あと、東先生が仰ったような背景世界の奥行きも、30話以降のハナシからは根こそぎスポイルされているのも事実だと思いますし、「スポイルされたからって問題ないじゃないの?」的な行動や発言も、視聴者はともかく、クリエイティブな事に携わる人間なら絶対にしてはいけない行為だと思います(もちろん白倉Pが言ったかどうかは知らないです)。サザエさんでドロドロの人間ドラマやったっていいんじゃない?と言って、世間で通用するでしょうか?それと同じで、今までの雰囲気や世界観、人物、全てを愛してきた視聴者に、いきなりそれとは全くそぐわないものを見せつければ、大なり小なり拒絶すると思います。勿論、それはそれでアリなんじゃないの?と受け入れる方もいると思いますし、それが間違っているとは思いません。問題なのは、その拒絶を示した人間がかなりの数になるという事であり、こればっかりはイメチェン後の俺で我慢しろ!と言っても、なかなか納得できるものではないでしょう。何せ、ルックスだけならいざしらず、性格や日頃の素行まで変わっちゃった、もしくはそう感じた人が多いんですから。

つまり、東先生のみならず、あらゆる方々が論考して尽きないほどの魅力や、それを許せるほどの懐の深さが旧・響鬼にはあったのに、新しい響鬼にはその深さがない。作品として底が浅いかどうかは判りませんが、語る余地がないほど薄味なのは事実だと思います。
少なくとも、妖怪好きにとって、東先生がご指摘されたような火車や童子・姫の扱いなどをされると、語る事さえ出来ゃしない(苦笑)。それが正しいとか正しくないとかはこの場合二の次で、語る余地がないほど底が浅くなった事が大問題だと。ぬ〜べ〜以下(笑)。


とまぁ・・・すごく長々と駄文を書いてしまい、申し訳ありませんでした。

投稿者 ペロー : 2005年09月26日 12:21

ペローさんの言いたいことも解ります。
ボクも水木先生の妖怪ものや、
夢枕獏などの怪奇譚・退魔伝などを読みあさったことがありますので。
それと同じようにSFやミリタリーにも興味があります。
そういった個人の趣味世界と、
様々なエンタメコンテンツを照らし合わせて、
複雑に楽しむ趣が理解できる人間のつもりです。

でも、それが単なる作品の私物化でしかないことも知ってます。

自分の趣味と合わないからといって、
「底が浅くなった」などと言うのは、
ペローさん個人の感想でしかないのです。
ペローさんにとって、それが大問題であろうと、
当然のように、他の人にとってはそうではない。

むしろ、そういった趣を楽しめる人間ほど寛容で、
他人に自分の意見を押し付けるべきではない。と思います。
例え、同じ意見の人が複数いようとです。
現状を過去と同じように楽しんでいる人の感性を
バカにする意思があるのなら別ですが。

ちなみに「アームド響鬼」のデザインと設定を作ったのは、
高寺プロデューサー率いる旧体制スタッフとのことですよ。
劇場版ブログで語られています。

さらにちなみに、ボク個人の妖怪感に、
マカモーのデザインは合いませんでした。
特撮ファンの視点から見ても、怪獣と呼ぶのもみすぼらしい。
モチーフは素晴らしいのに・・・。

投稿者 汁吉 : 2005年09月26日 14:21

>自分の趣味と合わないからといって、「底が浅くなった」などと言うのは、ペローさん個人の感想でしかないのです。

どうにも上手く伝わってないみたいですね・・・(苦笑)。
ボクが言いたかったのは、底が浅くなった、作品がダメだ、とかいう事ではなく、それはあくまで汁吉さんのおっしゃるとおり、ボク個人の感想でしかありません。誰がどう感じようが、人の楽しんでる物事を否定する権利は誰にもないと思いますよ。

問題だと言っているのは、今現在の響鬼に拒否反応を示している多くの方々が、以前の響鬼にはとても楽しめていたし、そういった方々を許容する懐の広さ、物語の広がり、そして妖怪論としての興味深さがあったという『事実』なのです。
実際、今の響鬼を楽しもうがどうしようが、それが問題なのではなく、以前の方法論では、もう響鬼を楽しめなくなったし、じゃあ路線を変えて楽しめよ、と言われても、例えば妖怪の方面でそれが無理なのは東先生がきっちり述べられていますよね。
もちろんそれ以外の方法で今の響鬼を楽しむのも良いとは思いますが、だからといって、以前の響鬼をとても愛していた人にとっては、そうそう許容できるものではないのです。

それに、
>新体制の響鬼にも、以前と同じように脳内補完してあげてください。

という汁吉さんの発言こそ、自分の意見を他人に押しつけている行為ですよ?
少なくともボクは自分の感性を人に押しつけるような悪趣味な発言をしたつもりはないですし、東先生もそうだと思います。
只、一個人の感想として、今の響鬼は魅力が減ったし、それはこういう理由によるものだ、と述べたまでです。


>ちなみに「アームド響鬼」のデザインと設定を作ったのは、高寺プロデューサー率いる旧体制スタッフとのことですよ。

なるほど。そうですか。別にボクは高寺さんの信者ではないので、誰が作ろうがどうでも良いです(笑)。
ただ、今までの路線で楽しんでいた自分としては、ダサく感じた、と。これもボクの『鬼』観から感じている一つの感想です(笑)。

投稿者 ペロー : 2005年09月26日 17:44

P変更が無かったとしても、アームドヒビキは遅かれ早かれ登場したわけですよ
だいぶ前からデザイン画が流出していましたし
その場合、どのような登場の仕方になったかは今となっては想像するしかありませんが

それでも同じことを言いますか?

投稿者 ×○ : 2005年09月26日 18:28

>今現在の響鬼に拒否反応を示している多くの方々が、以前の響鬼にはとても楽しめていた

わざわざ「事実」なんて書くほどのことはない、あたりまえの話じゃないですか。
以前の響鬼を楽しめていたからこその拒否反応なんでしょ。
因みに私は現在の響鬼、早く次週を!と心待ちにし楽しんでいますが、
同時に以前の響鬼も好きだった少数派です。
ただ正直に今の心情を申し上げるなら、
高寺Pの世界観信者のせいで旧響鬼嫌いになりそうです。
あ!違う。少数かどうかなんてわからないですよね、
全視聴者アンケート取ったわけでも無いんですからw

投稿者 夜鷹 : 2005年09月26日 20:53

 東様、ご苦労さまでした。ぶしつけにも催促いたしたものです。
 専門的見地からの考察、非常に楽しませていただきました。
 ところで、こちらのコメント欄で論争されている方々に少々言わせていただきたいのですが、ご存知かと思いますが、東様の今回の考察は白倉プロデューサーご自身からブログ経由で依頼されたもので、決して勝手に考えて勝手に発表しているものでは有りません。しかるに、先方から求められたものである以上非難ではなく見解ですし、白倉氏にしても非難中傷の類として取られることはなかろうと思われます。
 望むべくは、今回の東様のご考察を叩き台としてより以上の結論を白倉氏他「響鬼」スタッフに作品中で表現していただきたいと言うところでしょうか。その時間が残っているのならば。

 この場で論争されるのは、劇場版公式ブログの二の舞ではないでしょうか。しかもこちらは個人ブログ。東様の迷惑になるのではないかと存じます。

 え〜、装甲響鬼ですが、毘沙門天や帝釈天など、鬼神のイメージだと思い、和テイストははずしていないと感じました。(個人的、かつ装甲声刃以外ですが)

投稿者 石田豊武 : 2005年09月26日 23:03

>白倉氏にしても非難中傷の類として取られることはなかろうと思われます。

全くその通りですね。ですからボクも、この場では白倉氏を非難しているわけではないのです。そういった非難めいた事を言っているのではないという事はコメントをきっちり読んでいただければわかると思うんですがねえ・・・。

ボクは東先生の響鬼における妖怪論をとても楽しく拝読しましたし、どちらかというと、かなり正鵠を射てるのではないかと感じました。
だからこのブログのこの場は、あくまでその東先生の意見に対して、「他にもこんな響鬼における妖怪の考え方がある」とか、そういう妖怪論を語り合ったり提供したりする場なんでしょうね。
ですから、東先生の意見に対して、個人的な響鬼の好き嫌いを展開するのはともかく、ましてや東先生にそれを強制するような発言をするのはナンセンスなのではないでしょうか?


ちなみにボクは、威吹鬼というネーミングを聞いた瞬間、伊吹山の事を連想してしまいました(笑)。なるほど、それでイブキさんは鬼の中でもエリートなんだ、と、一人で喜んでいたものです(笑)。全く関係ない話ですね(苦笑)。

投稿者 ぺロー : 2005年09月27日 01:01

 皆様、熱心なコメントをありがとうございます。
 小生の発言・姿勢に対して肯定的な方も、否定的な方も、どちらの御意見にも「響鬼」という作品への並々ならぬ思い入れが感じられて、なんだか感動してしまいました。
 幸いこちらに書き込まれている皆さんは、節度をわきまえていらっしゃる方ばかりなので、必要ならば、このまま議論を続けていただいてもかまいません(これまでの投稿で掲載を見合わせたのは2件のみ。1件は某スタッフに関する真偽判別が困難な情報、もう1件は書きかけの誤送信らしき断片でした)。
 このコメント欄は、こちらで事前にチェックのうえ公開しておりますので、某所のような混沌(!?)は回避できるのではないかと思いますし、万一、何らかの支障が生じたら、その際に対応策を考えますので(ただし、こちらが多忙で公開までにタイムラグが生じる可能性がありますが、その際は御海容のほどを)。
 ただ、せっかく意見交換されるのであれば、それぞれの方が感じておられる新旧両「響鬼」の美点を、相互に主張しあうような展開がベターであろうかとは思います。
 そうやって様々な「響鬼」への思いが響き交わすことによって、見えてくるもの、変えられること……が、もしかしたらあるかも知れないではないですか。

投稿者 ヒガシ : 2005年09月27日 02:39

 どうも、カモネギでございます「シュッ!」
 響鬼についての妖怪とその周辺からの見解、心弾ませながら拝読しました。多くのコメントも、心震わせながら読ませて戴きました。
 世に特撮ファンがいるように、世界の片隅には私のような妖怪ファンという人々が生息しておりまして、妖怪ファンと大見出しをつけていますが、民話・説話・神話・伝奇小説・妖怪漫画・妖怪小説を読むだけでは飽き足らず、民俗学・宗教学・民の歴史・伝統芸能・仏像研究などの資料にも手を出してしまう傾向があります。(←別称「妖怪馬鹿」)
 東氏は、幻想文学アンソロジストとして、私のようなものに興味深いと思われる作品を集めて提示してくださる数少ない出版関係者だと思っております。
 妖怪ファンとして、妖怪を使用するエンターテイメント作品を見るとき、いつもその理解度を測っているようなところがあります。キャラクターとしてのみ使用しているのか、どの資料を出典としているのか、その作品における妖怪という存在をどう解釈しているのか等等。
 「響鬼」という作品は、そのあらゆる点において驚くほど満足のいく作品でした。
 オンエアでの映像を見る限り、魔化魍の本体は邪気や妖気の塊であり、それに生物を使った呪術的結合により、枯葉や土くれで身体を作っているようです。妖怪や精霊というものは、目に見える存在ではありません。水木しげる先生が「妖怪を見ようと思ったら、無理矢理見るしかないです」と仰っておられるように、実体のないのが妖怪なのです。もちろん、魔化魍=妖怪ではないのですが、妖怪の名を冠する化物が、この点を押さえていることが重要でした。
 そして、この「妖怪(や神や精霊)」を無理矢理見たり感じたりするための手段が、「音楽と舞い」だったわけです。音は目に見えません。目に見えない存在に、こちらから積極的にコンタクトするために、音楽を使ったのです。更に、舞うことによって、普段と違う精神状態を作りだし、なんとかその存在を感じようとしてきました。
 魔化魍が音撃でなければ倒せないという設定はこうした実際にある文化をしっかりと踏まえてあります。実体を作り出す土くれの身体を、物理的に切ったり撃ったり叩いたりしても、そもそもの本体である邪気妖気は何も影響を受けないのです。
 そして、こうした邪気祓いを行うのが、それまで多くの物語で祓われる側とされてきた「鬼」であることに、驚いたことは言うまでもありません。
「鬼」という、悪役の代名詞のようなキャラクターを、実は人のために化物を倒すヒーローなのだとする設定。これを起草するには、「鬼」という言葉の奥にある歴史的変遷を深く理解していることが必要だったことでしょう。近年多く発表された、陰陽道を題材にしたエンターテイメント作品の中で、陰陽師が担ってきたことを、鬼が行うという逆転現象。しかし、「鬼」というのは、人ができないことが出来る人、人でありながら人がしてはいけないことをする人、その人しか出来ない技能がある人、権力者の管理下から逸脱した人、目に見えない存在と接点を持つ人、一集団において、異質の文化・特徴をもつ人等など、列挙し尽くせないほど様々なものを包含しています。そういう意味では、陰陽師も鬼の一種なのです。洋館の男女が京極夏彦氏の妖怪小説の登場人物を彷彿とさせるのも、その象徴なのではないかとも深読みしてしまいます。
 日曜朝の特撮番組枠で、西洋の魔法使いを題材にした作品と、日本の妖術使いを題材にした作品が続けて放映されているこのラインナップの妙は、偶然だとしたら恐ろしいくらいです。
 音撃の表現の仕方を初め、作品の全てに完全に満足していたわけではありませんが、基本設定だけで白飯5杯食べられるわけです。(私の場合元々細川茂樹氏のファンなので、更にもう5杯。)
 私にとってこちらのブログは、妖怪ファン的観点から響鬼作品を語り合う数少ない場ですので、製作者側の都合とか、特撮業界の事情とかを居丈高に主張されても正直困惑しきりです。むしろ「演出方法や構成や人物設定が変更されたが、妖怪的視点からは何ら変更はない!」という見解がある方の詳細な考察期待してます。
 魔術が関わると、結局なんでもありになるのが一番怖いのです。妖術とはいえ、それなりの手順と法則にのっとっているので、その縛りを無くしてしまうことに、不安を感じているのです。早く安心したいものです。
 今、響鬼についてコメントするならば、肯定否定に関わらず、感情を剥き出しにせず、意図を確実に汲んで貰える様な文章を書く必要があるのだということを、痛感しておりますが、拙文にてお許しください。

投稿者 銀翔龍 : 2005年09月27日 03:54

銀翔龍さんの後に書くのは恥づかしいのですが、失礼して。
先日、某掲示板にてカシャについての考察で盛り上がりました。しめ縄(横綱)をしてるのはなぜか?体に記された経文はなんなのか?カシャという妖怪はどのような妖怪なのか?輪入道とはどのような妖怪なのか?
襲った人が灰になるのは何故なのか?
結局、精製方法が以前の魔化魍と異なるのでというカタチで終結しましたが、どうにかカシャを好意的に解釈していこうと辻褄合わせていく過程で自分の知らない妖怪知識が得られて(不勉強ですいません)楽しいひと時を過ごせました。
東先生のlogに対するコメントになってないかもしれませんが、隠された記号をつなぎながら観賞するというミステリー的な楽しみも響鬼の面白さの一つ(ドラマというのはそういうものでしょうが)なのでこれから現れる点がどのような軌跡を描いていくのか楽しみです。

投稿者 武助 : 2005年09月27日 05:18

以前、東氏はこのブログで以下のように述べている。
「なお、現在放映中の同タイトル、同キャストによる番組は、第二十九話までとは似て非なる別種の作品なので、ゆめゆめ混同されることのなきよう……。」
そして、これについての白倉氏のコメントを受けて「旧「響鬼」と新「響鬼」の比較検証という「宿題」」と答えている。
つまりこの「鬼譚・妖怪譚としての「響鬼」について」はその宿題というわけだ。
しかしながら、今回のブログには「おや?」と思う点がある。

東氏は旧響鬼の見解をまず述べ、新響鬼での変更点を語っている。
だが、先日投稿したときにも書いたがなぜか洋館の男女に触れられていない。
これは他の東氏の解釈に同意される方も同様である。
魔化魍は姫と童子から生まれ、その姫と童子はクグツから生まれ、クグツは洋館の男女から作られたことは皆様もご存知の通り。
そして、このラインは東氏のいう「響鬼」たる旧体制のときにすでに提示されていた。
にも関わらず、これには一切触れずに旧響鬼を考察している。これはおかしい。
いまだ解明されない存在であるためだとしても魔化魍に密接な関係があるこの存在を切り離して響鬼を語ることなどできないはずではないか。
実際に30話から変化は、30話以前に敷かれた洋館の男女という伏線に倣っていると思うがどうだろう?

さて、東氏は新響鬼のカシャは魔化魍として異常であるとされている。
その理由に「養い親となる姫・童子が介在しない」「自然から切り離された実験室で誕生」「人を喰らうのではなくただ焼き殺して去ってゆく」をあげているが、果たしてそうなのだろうか。
姫と童子は本当に存在しなかったのか?
これは東映公式に「幼少期から自ら餌をとる能力を持つため姫と童子を必要としない」とあるのでその通りだろう。
もっとも姫と童子は生まれてすぐカシャによって食われたという可能性があることと、猛士の歴史上で姫と童子が存在しない場合が記されている可能性があることもつけ加えておく。
つぎに「実験室で誕生」とあるが、公式を見てみると「洋館の男女が生み出した」とある。
ということは東氏の見解が正しいのだろうか?
だが、それ以前の魔化魍も調べてみると「女の黒クグツによって生み出された」という同様の説明があるため、実験室ではなくこれまで同様自然を介して作られた可能性がある。
東氏が「実験室で誕生」としたのは、姫と童子がいない点とおそらくこれまでも洋館の男女が実験していることからの推測なのだろうが。
これは私も東氏も推測の域をでていないので旧と違う違わないというのは断定できない。
最後に「焼き殺した」。これはどうだろうか。
公式では人を襲うと解説されているものの、「幼少期から餌をとる能力に長けて」という文章を見るにカシャも捕食する魔化魍と思っていいだろう。
ここで考えるに、これまで登場していた魔化魍は幼体だったのではないかということだ。
これはカシャが餌を自力で取れるため幼年期に姫と童子を必要としないことから、姫と童子が存在する魔化魍は幼年期であると推測されるためだ。
カシャは人を焼き殺す。東氏はそれが従来の魔化魍と違う点だという。
だが、それはカシャのように成長体になる前に、また成長体として動き出す前に鬼によって倒されているため捕食以外の行動を我々が知らないだけではないだろうか。
猛毒の泥で溶かした人間の成分を摂取するドロタボウのように、焼き殺した人間を何らかの形で食しているだけではないだろうか。
もちろん東氏の説のようにただ人を殺すだけのものに成り果てた可能性もあるが、旧から響鬼を見ているのならばこのような可能性も考慮にいれるべきだったと私は思う。

銀翔龍氏は抗議するなら「演出方法や構成や人物設定が変更されたが、妖怪的視点からは何ら変更はない!」と書かれるべきだろうと言われた。
だから、私は東氏や東氏の解釈に賛同される方にこうお聞きしたい。
「演出方法や構成や人物設定は変更されたが、(30話以降は)妖怪的視点から見て本当に変更されたのか」と。
長々とすみません。ありがとうございました。

投稿者 しろ : 2005年09月27日 09:55

響鬼が、妖怪ファンの琴線に触れる作品だったことは、
何も問題はなく、素晴らしいことだと思います。
しかし残念ながら、
メイン視聴者である子供たちの琴線に触れる作品では、
なかったことに問題点があったのでしょう。

30話からの響鬼には、確かに新たなテイストが盛り込まれています。
(それが子供に高く評価されるモノなのかどうかはボクには解りません。
あからさまなコメディテイストは理解しやすいだろうとは思うけど)
ですが、従来のテイストも可能な限り残そうとしていると思います。
新しいテイストが鼻につくために、
引き継がれた従来のテイストにまで違和感を感じているだけではないですか?

自分の趣味趣向に合わせて、物語を解釈して楽しむには、
その物語に対する思い入れや、評価する側のモチベーションの高さが
必要だと思います。
新たなテイストによって生まれた違和感が、
そういったモチベーションを阻害しているだけのような気がするのです。

今までも語られていない部分は多々あった。これからもそうでしょう。
ですが、従来のテイストは今後も残されていくと思っています。
違和感にのみ反応するのではなく、
落ち着いて従来と同じ楽しみ方をして、語られなかった部分を補完して楽しんでほしい。
と、そう思ったので、
>新体制の響鬼にも、以前と同じように脳内補完してあげてください。
と書きました。

仮面ライダーという番組は、ほんらい子供のための番組です。
子供がまず楽しんでもらわなければ、その存在意義を果たせません。
高寺氏も子供番組を目指して作ったのです。
今回の路線変更で、響鬼が子供の元に戻ったのであれば、
一部の趣味人にとっても良いことだと思います。

なぜか、
響鬼の従来のテイストは今後も活かされる機会を得たわけだから。
それと、新たなコンテンツが製作されるチャンスも残された。
そう思うからです。

子供から仮面ライダーを取り上げる権利は、僕らにはない。

投稿者 汁吉 : 2005年09月27日 13:43

しろさんの仰る、これまでの魔化魍は幼体、今の魔化魍は成長体、というのは、まぁ採り得る解釈だろうと思います。
ただ、物語のなかで、それを裏付けるものがないのが苦しいところです。例えば、これは妖怪論からは些かずれますが、魔化魍のアクションを受けて、それをどういうものか説明するのは、猛士サイドの反応にかかっているといっても過言ではありません。猛士の描写について不満に思う方もいるようですが、少なくとも、魔化魍のそのつどのありようが、想定の範囲内か、範囲外かの判断の根拠を、鑑賞者に与えていたと思います。まぁこういうのも、魔化魍と猛士との響き交わしの一環でありましょうか?
このコメント欄でも頻繁に出てまいります「火車」についても評価がぶれるのは、なんといってもあのエピソードの際の猛士的反応がまったくなかったことと無関係ではないと思っております。制作者についても、あの風邪云々の芝居が面白かったと思っているのかもしれませんが、「響鬼」世界での魔化魍・火車が本来どういうものだったのか、そして、今回のがどう妙なのか、そちらのほうが優先すべき事項ではないでしょうか。
確か「火車」は、キツネとも稲荷とも関係がないように思いましたが、どうだったでしょうか。それを、あんなキツネ顔で梵字だなんだというデザインにしたのはどういうことだと、今も首を捻っています。また、死体を盗っていくという逸話があって、むしろ「洋館の男女」の次なる策謀のため、人間を殺して死体を収集する、というほうが、お話としても面白かったのじゃないかとも思います。

やはり、現響鬼で、納得いかないのは、その即物性でしょうね、俗物性ともいえるかもしれません、仏教的なものをもってくるのに、修験道ではなく禅宗的警索を持ち出したり(密教系の独鈷とかならまだしも)……。
魔化魍「カマイタチ」にしても、まさかカマを咥えていて投げるとは思ってもみませんでした。物の本ではカマイタチは自然現象としての説明もなされていますが、そういう路線をとらず、あのような設定にしたところが、非常に即物的な印象を受けます。で、何故これでOKを出すのかと考えると、この方面への理解が足らないということや、そもそも好きではないんだろうなと思えてなりません。
また、あの「火車」を密教的秘術を人為的に加えて加工した魔化魍ということにするのなら、その後、また普通のというと語弊があるかもしれませんが、モンスター系「カマイタチ」に戻ってしまったのもどうも妙です。「洋館の男女」がより魔化魍への加工技術を洗練させていって、今後はいかにも人為的な魔化魍が続くのかと思っていたのですが、それとも、あの咥えていたカマ、あれは人為的なものだったのでしょうか? 
まぁ、いずれにしても、魔化魍についての説明が劇中で必要でしょう。で、それは猛士の、おそらく立花のおやっさんの仕事です。あるいは日菜佳ちゃんのデータ。そういう方面の描写が全くなくなって、「たちばな」は単なる電話受け継ぎ場所に成り下がっているのも退屈です。
以前のように現場からの電話が頻繁にはいるような猛士関東支部になってもらいたいものです。で「え?カマイタチが鎌を咥えている? そんなことは…」などというおやっさんのセリフでも入れば、まだ許せるんですが。

投稿者 緑鵡 : 2005年09月27日 15:10

白倉さんも一般のファンの声はまったく無視ですね。
白倉さん個人のブログなんてマニア以外はみてないのに。せめて、東映のサイトにプロデューサーが変わったことは発表するべきだったのでは。情報公開せずにサイレント・マイノリティーは完全に無視して、自分はプロデューサーとしてきっちり仕事してますよという態度を取っている。

 一般のファンの意見にああやって上から見る態度はどういうことなんだろう。だいたい、テレビを見ておもしろくなくなったと視聴者が思ったら、その時点で製作者の負けなんだよ。

投稿者 紅の季節 : 2005年09月27日 16

投稿者 紅の季節 : 2005年09月27日 16:25

 しろさん、汁吉さんからの丁寧なご意見が聞けて嬉しく思っています。と同時に少し安心しました。感情をぶつけるだけではその奥にある真意は伝わらないものですね。
 前置きしておくと、三十之巻視聴時直後は、何もかも変更されてしまった〜と感情的になっていましたが、今は心を落ち着けて、現在の響鬼もリアルタイムでしっかり視聴しておりますし、自分なりの楽しみ方で笑ったり突っ込んだりしております。ヒビキさんがいる限り、最終回まで楽しめると思っています。
 路線変更前後で気になる点も、自分がどのように解釈していたかによるので、あくまで私個人の感想です。私の妖怪的視点からする三十之巻以降の響鬼は、「あ〜おしい!もうちょっと!」というスタンスです。
 まず、よく言及されている「火車」について気になったことから書いてみます。
 一つは実体化の母体となるキツネをどこから持ってきたのかということ。北海道のキタキツネや狸と違って、関東でキツネがウロウロしているとは考えがたい。洋館の男女が銀ギツネの毛皮を買ってきて(笑)、陰の気の充満する場所に持っていって、傀儡経由で実体化させたのだろうかと、何とか脳内補完の道筋は考えました。響鬼が「あれ、火車だよな」と言っていたので、洋館男女のオリジナル魔化魍ではなく、自然発生の火車もいるということですよね。レアな火車を生んだという特異性を、「面白いのができたよ」という洋館男の一言で終わらせてしまったことが残念でした。折角の新展開ですから。
 しかし火車が姫童子を必要としない設定には、「なんで?」としか言いようが無いです。「生まれた時から逞しいから!」と言われたら、視聴者は「はいそうですか」としか言いようがないのですが、妖怪ファンとしてはどんな特殊設定なのかと気になります。それは自然の火車の特性なのか、それとも人工火車だけの特性なのかでまた違うのですが。じゃあ、そもそも何故姫童子が魔化魍と同時に発生するのか、その点の解釈の提示がないまま「こんなタイプ」といわれると、解釈なんて放棄しているのではないかと不安になります。
 次に火車が変形して輪入道になるわけですが、輪入道の造詣が人工物でした。「『妖怪大戦争』の「機怪?」付喪神も含めてしまうのか!?収拾付くのか?」とやはり不安になります。あれが身体を輪にしてぐるぐるまわるキツネだったら理解できたのですが。しかし、妖怪脳を駆使して、「キツネだから車輪に化けた!それでいいじゃないか!」と自分に言い聞かせる努力はしましたよ(笑)。
 洋館の男女の正体が明かされない限り、何もかも推論でしか話せませんが、洋館の男女=陰陽師説を唱える私としては、洋館の男女を万能化して、魔化魍の造詣や生成をすべて「加工したから」で済ませてしまうのが悲しいのです。もう残り放送も少ないので、新種の魔化魍の丁寧な描写を提示して欲しいが、そこには力を入れないのだろうかという悲しみや不安が胸をよぎるばかりです。
「お前の見たいものを見せないと言ってるだけじゃないか」と言われれば仰るとおりです。それが路線変更というものです。三十之巻で見せ方の力点が変わったなら、変わる前の響鬼について考察を出すことだけでも、お許し願いたいのです。
 妖怪脳はしぶといので(笑)、まだまだ楽しむ術はありますから、今後の響鬼も考察していくつもりです。

投稿者 銀翔龍 : 2005年09月27日 18:17

>緑鵡さん

横レスすみません。
マカモーに関する説明は、以前から無かったと思います。
以前から、妖怪そのもの=マカモーであると説明描写もありません。
陰陽道・密教につながっているとハッキリ説明されたこともありません。

映像化された記号を持ち寄って、「そうにちがいない」と妄想することは可能ですが、
その妄想が正しいと公式に認められることはありえないのです。

それと、警索は禅宗だけのものではありません。
警索を使わない禅宗の宗派もあります。
独鈷が密教的と断定するのも、偏った認識です。

本来、妖怪というのは、物語とともにあるものだと思います。
物語が生まれた時代の背景や風俗と決して切り離して考えることはできない。
それが伴わなければ、怪人や怪獣と区別がつきません。

むしろ、ただの大きなカニを妖怪だと言っちゃうほうが不自然。
イメージの補完として、童子や姫の衣装やセリフがあり、
それで妖怪に付き物の物語を感じさせていたのでしょう。
マカモー単独で行動するカシャには、
単独で物語を匂わせる姿が必要になった。
ので、あんな格好になったのではないでしょうか?

バケネコが童子と姫を伴わずに現れたら、
狼男と区別つきませんし、妖怪とは思えないでしょ?

投稿者 汁助 : 2005年09月27日 18:31

30話のカシャには、確かに違和感のようなものをとても感じます。

確か鳥山石燕の描いたカシャは、狐ではなく大猫だったと思いますし、全身の梵字(経文だっけかな?)というのも、とてつもなく違和感を覚えます。耳なし芳一じゃないんだし。それに梵字を記した妖怪ってありましたっけ?仮にいたとして、何故カシャに梵字を記す事になったのか。狐の姿にしても、稲荷の妖怪って言われても、そもそも稲荷は妖怪じゃなくって仏教とも神道ともある種独立した、稲荷信仰という特異な神様だし。そういった一貫性のなさ、妖怪を適当に扱う事が、少なくとも妖怪を軽んじてるように感じます。

あのカシャは、洋館の男女による特別製と公式サイトには説明されていますが、それの番組内説明もほとんどないに等しく、仮にそういった異常事態なら、かつて鎧童子なんかが出てきた時のように、猛士の面々がもっとダイレクトに働きかけてくるはずだと思います。まして梵字なんかが全身にあったなんて報告したら、おやっさんが「何だって?!」ってビックリして調べまくるはず(笑)。

カマイタチは・・・あれはもう、何とも・・・としか言えないです(笑)。


あと、29話までの響鬼が、子供たちに人気がなかったというのは、少々誤解があると思います。
まず第一に、その前のブレイドで、仮面ライダーそのものに子供を含めてかなりのファンが減ったようにボクは感じています。作品が酷評されているからとかではなく、実際、自分の周りのチビッコ達でブレイドを認知しているとはほとんど聞きません。自分の血縁も含めて。
この時点で、後番組である響鬼は、ハンディキャップを背負ってスタートした事になり、かなりアピールがないとチビッコ達は見てくれなかったでしょう。実際、響鬼スタート時は、響鬼よりもマジレンジャーやプリキュアに熱をそそぐ子供はいるものの、「はぁ?響鬼?」みたいな反応をされました(笑)。

それが轟鬼が出、やがて子供達にもじわじわと浸透していき、何より夏休みの再放送によって、子供達の間に一気に広がっていったというように思います。

ですから29話終了時点では、かなり子どもたちの間にも、響鬼の人気は高まっていたように思います。町中で、紅に変身する男の子をよく見かけますし(笑)。だからむしろ、ハンデを背負ってスタートしたにもかかわらず、よくここまで人気が出たなぁ、と、29話までの響鬼の健闘を讃えてあげてもいいとさえ思います。

それに、これは余談かもしれませんが、ボクの姪っ子の1年生の子は、響鬼を通じて妖怪にとても興味を持ってくれてます(笑)。響鬼に出た妖怪と同じ名前の妖怪を、水木しげる先生の画集で見せると、熱心に色々聞いてきますし、それ以外の妖怪にも興味津々です。先日も枕返しの話しをしたら、真剣に怖がってました(笑)。妖怪好きとしては、そういった形で子供達が妖怪に興味を持ってくれる事は、とても嬉しい事です。その意味でも、響鬼は妖怪好きを喜ばすためにあるんじゃない、とかではなく、響鬼を通じて妖怪を好きになりつつある子どもたちのためにも、丁寧に妖怪を描いて欲しいと思います。そういった子供がどれぐらいいるかはわかりませんが、妖怪を中途半端に扱ってるように感じる今、まるで「所詮、子供だから」と、侮っているようで、とても残念に感じています。
いずれ、カシャ以降の変化については、物語内で何らかの説明がされるとは思ってますが・・・。

勿論、響鬼自体は、30話から子供達の人気が下がったかという事実はないので、その点で現行の響鬼を非難するのはお門違いだと思いますので。その上で、今の響鬼が果たして「生き残った」といえるかというと、これは今後の展開を見守っていくしかないでしょうね。今の響鬼が子どもたちに愛されていくかどうかは、少なくとも現時点で答えは出ていないのですから。

投稿者 ペロー : 2005年09月27日 19:14

はじめまして。
東先生の妖怪文芸「響き交わす鬼」を楽しく拝読したものです。

要するに29話までは作品に対するこだわりを感じられたが、30話からは諸々の諸事情でそれが消失してしまった。
そういうことではないでしょうか?
私も同感です。
正直、三十話以降は路線変更というより、安くあげているようにしか思えません。

子供の琴線に触れていないとありますが、何を根拠に? おもちゃが売れていないから? おもちゃを買うお金を出すのは大人ですよ?
確かに好きじゃないと言う子供さんもいるでしょうが、好きだと言う子供さんもいるのです。
十把一絡げに語るのはお互いによそうではないですか。

手頃な値段のソフビ(ヒビキクレナイ)はすごい勢いで売れていて品切れが続出しているそうです。
DAも相変わらず人気がありますし。

投稿者 : 2005年09月27日 19:33

汁吉さん

>マカモーに関する説明は、以前から無かったと思います。

ええ、ですから、魔化魍のアクションに対する、猛士の反応と申し上げました。

>陰陽道・密教につながっているとハッキリ説明されたこともありません。

>映像化された記号を持ち寄って、「そうにちがいない」と妄想することは可能ですが、
>その妄想が正しいと公式に認められることはありえないのです。

図像学におけるアトリビュートというものをご存知ですか?乱暴にいうと、キリスト教関連の絵画で、これこれの持ち物をもっている人物がいれば、それは聖人誰それであるというお約束です。同じ人物でも、その持ち物によって、「嘆きの聖母」になったり「喜びの聖母」になったりするという奴です。
東洋美術にも、西洋ほどではありませんが、同様の約束事体系があり、作品理解に大変役立ちます。
で、私は、図像学同様の方法が、「響鬼」の理解にも適応できると思っております。
少なからず、響鬼関連の記述をネットで見ておりますが、その物語世界の設定についての言及で、陰陽道について触れられているのはどういうわけか、それはやはり物語内の描写が、それとズバリいいあててはいなくとも、陰陽道などのさまざまな事どもに該当するからであろうと思います。
いわば、キリスト教絵画で、アトリビュートのみ描いてあって、ここに●●が描かれていると解釈するようなものです。

また

>バケネコが童子と姫を伴わずに現れたら、
>狼男と区別つきませんし、妖怪とは思えないでしょ?

これは非常に大事なことを仰ってますね、図らずも、魔化魍を規定するために、姫と童子は不可欠だということですもの。
ところで、私は一瞬、あれこそバケキツネかと思ってしまったことを告白しておきます。まぁ、猫も化けると尻尾が…という話でしたものね(笑)

>ペローさん

うちの甥っ子も、トドロキファンですねえ。まだ玩具はせびられてませんが。それにしても、去年は子供たちから「デカレン」「プリキュア」は聞いても、「剣」はとんと聞きませんでしたね。いや、とにかく女の子の間の「プリキュア」人気は凄かった。

投稿者 緑 : 2005年09月27日 20:04

あ、あれ、投稿者名が「緑」だけになってしまいましたが、27日20:04のは、私・緑鵡の発言です、すみません!

投稿者 緑鵡 : 2005年09月27日 21:02

ボクも響鬼の玩具が売れていて、子供に人気があるとしたら嬉しいです。
例え、身近な一例だとしても、響鬼ごっこなどで遊んでくれる子供がいる話を聞くのも嬉しい。

ですが、バンダイが行った子供向けアンケートなどを見るかぎり、
前年比でも子供に人気があると思える客観的データはありません。
玩具の売上にしても、大きな変動はまだ無く、
昨年と同じレベルにとどまっているようです。
ディスクアニマルにしても、
各種ランキングなどで上位に上がることもなくなりました。
(内容に関しての議論の場ですので、
これらのソースとなるサイトのリンクは控えます。
2chなどで探すと見つかりますよ)

龍騎で130億円、555で120億円の売上をバンダイに達成させた白倉氏の業績は、
今回の交代劇の裏に隠される大きな要因だと考えるのに無理はないでしょう。
(響鬼は2005年度目標で約70億円 夏期に下方修正された模様)

玩具を買い与えるのは大人ですが、
子供が欲しがらなければ買わないでしょう。
なんにせよ、大人が買い与える動機に欠けていたコトは否定できません。

もちろん、子供に人気がなかったから駄作などと言うつもりはありません。
すべての子供が響鬼に興味を持たないとも思いませんし。
ただ、「番組制作に必要な収益を得るための努力」は足りなかったと断定できるかもしれません。

投稿者 汁助 : 2005年09月27日 21:06

>緑鵡さん

>キリスト教関連の絵画で、これこれの持ち物をもっている人物がいれば、
>それは聖人誰それであるというお約束です。同じ人物でも、その持ち物によって、
>「嘆きの聖母」になったり「喜びの聖母」になったりするという奴です。

仏教美術にも似た面がありますね。
無数に描かれた見た目同じの両性具有の菩薩が、
手に持つ仏具などでキャラ分けされていたりします。

宗教における記号は絶対でなければいけません。
間違った教えを伝えるわけにはいかないから。

しかし、フィクション上の記号は、そうじゃありません。
あくまでも物語を盛り上げるための1つの要素で良いのです。
宗教で使われる記号と同じレベルで考えてしまうと、
旧体制響鬼ですら、その筋の専門家からツッコミ入りまくりますよ。
その手のツッコミはバンダイや東映上層部と比較にならないほど危険ですw

>魔化魍を規定するために、姫と童子は不可欠だということですもの。

必ず姫童子が必要になってしまうのは、妖怪の持つ多様性を殺してしまう可能性があります。
カシャが単独で物語を背負うのは、多様性の面からみて良いことだと思います。
むしろ、人に変化する上級マカモーなんてのが出てきたら楽しくないですか?

投稿者 汁助 : 2005年09月27日 22:16

>子供から仮面ライダーを取り上げる権利は、僕らにはない。

失くしてしまったものの大切さを嘆く権利は、大人にもあると思います。

私は、東先生の一連の文章を、自分なりに「鎮魂歌」と解して共感してきました。
嘆きを共有してほしいのではないのです。
でも、確かに感じているこの喪失感を、感じる必要のないものと一刀両断してほしくはありません。

>子供がまず楽しんでもらわなければ、その存在意義を果たせません。
高寺氏も子供番組を目指して作ったのです。

現在の特撮界のハブリシティから判断するに、本当に対象層は「子供だけ」なのでしょうか?
公式サイト一つとっても、あの内容が「子供」対象ですか?それならば、DVDにしても何故ディレクターズカット版なるものが、わざわざリリースされるのでしょう。
あくまでも私個人の捉え方ですが、むしろ「子供(明日夢)に接する大人達の姿」を、次代を生み育てる世代へ見せたメッセージだったように思われてなりません。


>玩具を買い与えるのは大人ですが、子供が欲しがらなければ買わないでしょう。

大人側の不買原因の一因として、商品自体のクオリティの低さもあるかと・・・。実際、売り場で目にした変身アイテム商品はそそられる物ではありませんでした。
しかし現在の響鬼が、お子さん達にわかりやすく喜ばれるストーリーになって、装甲シリーズのおもちゃの売上が上がるのは、喜ばしいことです。視聴率も上がっているのかもしれません。所謂、改変によって、一般的な評価が高くなった、それも異論はありません。

それでも、画面の向こう側の世界に「私が」見ていた、古来から現在に至る鬼達と魔化魍の時間の流れは、もう見えなくなってしまった。これも、私の中のでの事実です。押し付けではありません。

>現状を過去と同じように楽しんでいる人の感性をバカにする意思があるのなら別ですが。

こちらのブログに限定するならば、そのように汁助様(メルアドが同一なので、後出の方で呼ばせていただきました)が感じられるコメントが存在したようには思えないのですが。
穿った見方をすれば、過去の響鬼に関して、東先生が提唱されている世界観を感じることができないことに対しての苛立ちにも聞こえてしまいます。

『考察』という本題から離れた、揚げ足とりな書込みで申し訳ありませんでした。

投稿者 momo : 2005年09月27日 23:35

>仏教美術にも似た面がありますね。

仰るとおりです。西洋美術に比べ、まだ一般的に分りやすい資料とか少ないですが、仏教に限らず東洋にもそういうお約束があるものです。

で、汁吉さんは、宗教では絶対だが、フィクションではそう厳密でなくてはも構わないだろうとのお考えのようですが、私は、例えフィクションであれ、いや、むしろ虚構作品であるからこそ、その意味付けは厳密でなければならないと考えております。
セリフや、場面やセットの美術、映像であれ小説、マンガであれ、そういう統一した意味体系に従わなければ、正しく暗喩が伝わらないではありませんか?
虚構作品の観賞によってモノを学ぶことだって出来ます。しかし、そのようないい加減さを認めては、わやくちゃな作品ばかりが巷にあふれることにもなりかねませんし。
少なくとも、日本の作品でも、中世以降、とりわけ江戸の作品などは、アトリビュートが分かりやすく、これならアレと理解できたようですし。

旧響鬼が、専門家からツッコミ入りまくりだというのなら、それはそれでやるべきでしょう。今後、伝奇エンタテインメントの傑作を生むプロトタイプとなるためにも是非。
ですが、その筋の専門家というか、詳しい人々である東氏や加門氏が、そうしたことを行っていないのですから。むしろ「コレコレに照らし合わせて、このドラマは大したものである」という論評をなさっているわけで。私にはそこに付け加えることがないのです。

>必ず姫童子が必要になってしまうのは、妖怪の持つ多様性を殺してしまう可能性があります。
>カシャが単独で物語を背負うのは、多様性の面からみて良いことだと思います。

なるほど多様性。いやぁ、私は姫と童子は、いわばその種の魔化魍におけるイザナギ・イザナミのごとく(加門先生の文章にこれを見つけ我が意を得たりという心地がしているのは私だけではございますまい)、その陰と陽が和合して成る(あるいは「むすぶ」)のは、「響鬼」ワールドの鉄則の一つだと今も信じてやみませんので、多様性といわれてもなかなかには首肯いたしかねます。
姫童子のない魔化魍、それは、魔化魍の世界の「常なる」ものからすれば外れている、すなわち「非常事態」。というのなら、そこから更に展開があれば、それはそれで結構なことだったんですが、どうなんでしょう。結局なんの引継ぎもないまま終わってしまいましたし。今後、展開の可能性はあるのでしょうか。まぁ、見ていけば自ずと明らかになることでしょうが、どうも、今のままでは不安が募ります。

>むしろ、人に変化する上級マカモーなんてのが出てきたら楽しくないですか?

そのほうがまだいいですね。「朱●」なんてもんが出てくるよりはるかに。あ、これは自ずとわかる話ですので…

投稿者 緑鵡 : 2005年09月27日 23:44

アトリビュート認めなければ、それこそ『フィクションなんだから、何でもアリ。きっちり説明されてないでしょ。』で議論がすべて終ってしまうような気がするんですがね。それでなくとも響鬼は、設定を語ることが少ない番組でしたから。
すべて『妄想』と指摘するだけで設定面からの考察は終りますね。

投稿者 @ : 2005年09月28日 01:03

はじめまして。
三十話以降の響鬼の問題点はおそらく
物語に対する説明力不足だと思うのです。

私見としては、響鬼は平成になってから生まれた新たな鬼譚でありますから、
独創性がいくらあっても、伝承ごとで色々食い違いがあるように、既存の伝承といくら違ってもいいとは思うのです。

実際二十九話までは鬼という、従来の物語であれば敵でもあり、頼もしき味方でもあるもの「異なる存在」として描かれる特殊な存在を「明らかな味方」かつ「大人の象徴」として描く事などを筆頭に様々な形で独創性が見られました。
そしてこれらの独創性に既存の伝承をイメージさせる形や演出、たちばなでの説明等々を織り交ぜることで、世界観を周到に描いています。

これはここまでは作り手の世界観把握能力や説明能力が物語を語るのに充分だったからなのだと思います。

三十話以降の響鬼はどうでしょうか。
明らかに今までと違う魔化魍が洋館の男女によって生み出されて、鬼などの活動風景も今まで語られていた約束事から逸脱しています。
逸脱してきているのはさしたる問題ではないと思います。新しい鬼譚なのですから、そうして変化を与えてみることもありでしょう。

これら鬼譚としての響鬼が新しい局面を迎えた時は、二十九話までの物語であれば「登場人物が異変に気がつく、書き文字等で演出する」等の「説明描写」があり、それによる「物語の展開」がありました。

ところが三十話からいままでの響鬼にはそれがない。
そこが一番大きな問題点なのではないでしょうか。

いわば、車の設計をしている人が実物の車を見ずに描いた車の絵と、ただの人が車を描いた絵と同じようなもので、圧倒的なまでの情報量の落差です。

白倉P氏のブログや各所での発言を見る限りでは、能力的な問題か、スケジュールや人材、あるいは商業上の問題かは存じませんが、今までのような鬼譚、妖怪譚は物語ることはできず、物語の変化に対しても「説明しない」のではなく、「説明できない」、世界観が変わってきているのをうまく描写できていないのを理解できていない様子がありありと伺われます。

結局、鬼譚としての在り方や、テイストより、物の語り方とその能力、そのあたりが問題なのではないかと思う次第であります。

ですから今週までの新生響鬼は「既存の物語をひきつぐ冒険を、彼らはしているはずなのに、なぜこんな?」ということで、
鬼譚以前に物語として落第。応急処置の四苦八苦としては及第として、鬼譚でも、妖怪譚でもなく、新しい白倉P氏率いる語り部達が物語を語るのを「もっとがんばりましょう」と応援し続ける他はないのかも知れないと思う次第です。

投稿者 景 : 2005年09月28日 02:14

>緑鵡さん

>私は、例えフィクションであれ、いや、むしろ虚構作品であるから
>こそ、その意味付けは厳密でなければならないと考えております。

これには賛同しかねます。

響鬼にしても、歴史的には邪なモノとして扱われてきた存在「鬼」を、
ヒーローにしてしまった時点で、フィクションとしての意外性や新しさを、
正確な考証より優先した結果だと思います。
宗教的にも文化的にも、正確な考証に従うなら、ありえない手口ですよね。

西洋的に言えば、ルシフェルを主人公にしてミカエルを敵として物語を描くようなものです。
そういうキリスト教圏では絶対不可能な表現も、
日本では可能ってことに喜びを感じちゃダメですか?

時代考証や設定考証が現実や文献に即してなければダメなんてことになると、
「太陽にほえろ」や「西武警察」はダメなフィクションで、
「踊る大走査線」だけ正しいフィクションなんてことに・・・。
ダーティーハリーが、「44マグナムのショットシェルで撃てば、
人間の頭部が消し飛ぶ」なんて表現も嘘だからダメ、なんて言い出したら、
もうフィクションなんて楽しめません。

特に密教的な演出を徹底すると、仏具の扱いや並べ方などから、
術者の歩法まで含め、儀礼的な部分の完璧な模倣など、
専門家でも難しい。
神道や陰陽道となれば更にそうでしょう。
日本文化に深く浸透した世界です。考証を始めるとキリがない。

そこをこだわり尽くすより、フィクションにはもっと大事なモノがあるはずです。

>妖怪の多様性

妖怪の世界は、傘や草履など、まさになんでもアリです。
響鬼世界での、統一性は必要かもしれませんが、
それは物語を円滑に進めるための設定という意味しか持ってほしくないですね、ボクは。
デカイエイと同じレベルで、デカイフナムシが化け草履とか言い出されたら、
個人的には、ちょっとガックリきますw
その意外性も響鬼の良さかもしれませんが・・・。

投稿者 汁吉 : 2005年09月28日 10:38

個人批判をするつもりではないのですが、汁吉さんのおっしゃる

>響鬼にしても、歴史的には邪なモノとして扱われてきた存在「鬼」を、ヒーローにしてしまった時点で、フィクションとしての意外性や新しさを、正確な考証より優先した結果だと思います。

として、フィクションだから物語上のダイナミズムや意外性の方を優先しよう、というのは論点からズレてきていると思いますが。
そもそも響鬼という作品に妖怪論や民俗学的なリアリティを厳密に求めるのはナンセンスな話しです。そういう意味では汁吉さんの言う、

>そこをこだわり尽くすより、フィクションにはもっと大事なモノがあるはずです。

というのは全くその通りだと思います。

しかし、ここで問題にしているのは、響鬼における様式美というか、リアリティの基準です。物語には、現実にはない、「こんな事ありえない」って事を可能に出来るダイナミズムがあり、だからこそ宇宙人だろうが恐竜だろうが妖怪だろうが、どんなものが出てきても、許せます。しかし、どんなフィクションであれ、ルールというものは存在します。
例えば、ドラゴンボールの「気」は、「人体から発するエネルギーの一種で、増大すれば物理的破壊力も得られる」とかいうものです。これは物語上でルールが設定され、書き手はそのルールに則って物語りを作り、受け手はそのルールの枠内で、どんなダイナミズムがあるのかをワクワクしてみるものです。ルールを厳密にし、詳細にすればするほど物語のカタルシスは高まり、受け手はダイナミズムに驚嘆し感動するのです。
しかし、ドラゴンボールの例で言えば、何らかの理由で、作者が鳥山明から他の作家に移ったとたん、死んだ人を蘇らせるために気を注入して人を蘇生させたりしたらどうでしょう?それは本来のルールから明らかに外れており、ご都合主義とか作者の手抜きの類と、誹りを受けるでしょう。挙げ句には、鳥山明はそんな描き方しなかったと言われます。

物語やフィクションだからといって何をしてもいいと良いワケではなく、個々の物語にはそれぞれのルールがあり、それは書き手がどんな事をしても守らなければいけないのです。それを破れば破っただけの説明がなければ、やはり手抜きやご都合主義と言われるでしょう。

そして、29話以前の響鬼の物語における妖怪のルールこそ、東先生が考察され、緑鵡さんがアトリビュートを例に出され、銀翔龍さんや景さんが仰っておられる響鬼における妖怪論ではないでしょうか。それが旧・響鬼においてのルールとして、全く完璧に正しいかどうかは、製作者でない以上、断言できる権利はありませんが、少なくとも、そう取れるだけの論理性や整合性は、かつての響鬼にあったのは事実ですし、明らかにその中で話しは進められてきました。

しかし、29話まで一貫して守られてきた響鬼の「妖怪ルール」が、現在の響鬼では無視されているし、無視をしている理由の説明もない。それこそが問題なんです。つまり、物語のルールの少なくとも一つが、30話以降からは無視され、破られており(またはそのように見受けられ)、一斉に異論が噴出したのです。「じゃあ今までの(ルール)は何だったの?」と。

極論を言えば、今の妖怪の描き方が響鬼における「妖怪ルール」なんだというなら、響鬼はそもそも何でもありな、無茶苦茶な妖怪を出したっていい事になり、ロボット妖怪とか、宇宙妖怪なんてのもOKってなりますし、これを敷衍すれば、響鬼が宇宙に行こうが、複数の鬼が合体して、「ウルトラ響鬼!!」なんて言ったって、それもアリになりますよね?(笑)
それを楽しめる人は、楽しんでいただいても全然構いませんが。

今言っている物語上でのルールというのは、フィクションにおける書き手の最低限度のマナーであり、「何でもいいや!」としてしまえば、かつてご都合主義や手抜きと言われ、見放されてきた数々の作品と同列のものとして、響鬼もその烙印を受けるでしょう。

ボクらは響鬼に、出来ればそうなって欲しくないからこそ、今の響鬼に嘆き、かつての響鬼との差異を語っているのです。


だからこそ、フィクションといって、

>それは物語を円滑に進めるための設定という意味しか持ってほしくないですね、ボクは。

というのは、物語そのものを貶めてしまう可能性もありますし、ここで言っている事とはズレているのですよ。それは妖怪の多様性とは全くの別問題です。
たしかに、

>妖怪の世界は、傘や草履など、まさになんでもアリです。

ですが、響鬼はあくまで妖怪に題材を求めたフィクションであり、物語だからこそ、かつての響鬼ワールドの妖怪にもルールはあったのです。もし高寺Pをはじめとするかつてのスタッフが挙って、「そんなもんないよ。響鬼は何でもアリだから」とでも公式な場で言えば別ですが(苦笑)。
どんな物語にもルールはありますし、それが守られなければ、それはただの「駄作」です。旧・響鬼におけるルールがたまたま厳密で詳細であり(またはそう見受けられ)、それが今の響鬼には守られていないのです。

投稿者 ペロー : 2005年09月28日 12:20

多少論点が広くなりがちなのは、疲れてきたからかも。
HNがたまに変わるのも疲れですw

1つの物語上で、一貫性を持った設定上でコトを運ぶことに反対はしません。
むしろ、そうすべきでうすよね。当然だと思います。

えと、じゃあ、カシャを擁護してみますね。

日本における陰陽道の成り立ちには、密教を外して考えることはできません。
役行者ですら、孔雀明王の教えを受け密教を学んだのですから。
密教は、当時の最新科学です。あらゆる学問や文化に影響を与えました。
安倍晴明だって、印を組み真言を唱えるじゃないですか。

カシャを生み出す際、陰陽道の流れを組む洋館の男女が、
呪術を用いて研究室の一角にカシャが育つ環境を擬似的に再現。
その箱庭の中に「梵字」を記した媒体を入れ育てたのかもしれません。
ある種記号的に自然環境を箱庭の中に構築できたのですが、
やはり足りない物もあり、
呪によって念を宿らせなければ完全な育成は不可能だったのです。
よって、成長しても呪として機能した梵字は刻み込まれたままとなり、
あのような形で残った。

とかどうでしょう?
まだ、世界観壊れてますか?


次、スーパー童子。

クグツはあくまでクグツですから、創造神である洋館の男女の、
操り人形でしかありません。
男女の代わりに、マカモーが育つ最適な環境を探し、
そこで親となる童子・姫を誕生させマカモーを育てさせることが役割です。

カシャの実験成功によって、実験室ですべてのマカモーを育てることが可能になれば、
クグツの必要性はなくなるのです。
童子と姫には育てる能力より、マカモーをサポートする能力が求められます。
よって、より強く様々な状況に対処できる最新型を一組用意することになりました。

クグツを動かすには、それなりの労力を必要としたはずです。
いわば化身であり、式神のようなモノですから、
男女の念を消耗させる原因にもなりかねません。
よって、省エネのために排除しました。


最後に、カマイタチ。

カマイタチの顔の一部に骨が見えていました。
これは、人口生成物であるがゆえの不完全性を物語っています。
カマをくわえているのは、同じようにカタワとして育った彼らの能力を補うため。
大きなイタチ3匹を作ろうとしましたが、
設備や呪術的な不完全が災いして、3体が融合して生まれてしまいました。
パワー優先で作るなど無理もあったのでしょう。

とか、苦しいですか?
今までも説明はなかったのですから、これからも明確な説明が必要だとは思えません。

投稿者 汁吉 : 2005年09月28日 13:53

成り行きを見守っておりましたが……。
基本的に現在の流れは、東さんの主張する最終的な論点、
「29話以前と以降ではテイストは明らかに変化した。そして編著やブログで触れたものは前のテイストである」
そして、前のテイストに感じていたのはこれこれこういうことである……ということには関係のない論になってきてはいないですかね?
東さんも29話以降を否定する旨のことは書いておられませんし、あくまで、以前に感じていたものとは異質である、ということを述べておられるのですし。
それを踏まえた上で断定的に「これはこうこうこういう解釈をすべきではないか」「こういう見方をすべきではないか」と持論を主張するのは、むしろ論議の発端であった「意見の絶対化」「意見の押し付け」に帰結し、感情的な平行線にしかなりえないとは思いますよ。

東さんの論は(ペローさんのご意見にもやや被りますが)「妖怪マニアや宗教家も納得する、こういう厳密な作品であったはずだ!」ということではなく、「こういう解釈もできた。面白いよね」ということではないかと私は思うのです。
そして、その上での物語としてのフィクション、リアリズム、世界観のルールに関してはペローさんのご意見とほぼ同意です(ドラゴンボールの例は、あれもあれで唐突に生じるルールの多い世界でしたので(私はそこも含めて好きですが)この場合ちょっと誤解を招きやすいかな、とは思いましたけど(笑))。

投稿者 神堂劾 : 2005年09月28日 14:23

えと、ボクが言いたいのはこういうことです。

自分の趣味趣向に合わせて、物語を解釈して楽しむには、
その物語に対する思い入れや、評価する側のモチベーションの高さが
必要だと思います。
新たなテイストによって生まれた違和感が、
そういったモチベーションを阻害しているだけのような気がするのです。

今までも語られていない部分は多々あった。これからもそうでしょう。
ですが、従来のテイストは今後も残されていくと思っています。
違和感にのみ反応するのではなく、
落ち着いて従来と同じ楽しみ方をして、語られなかった部分を補完して楽しんでほしい。
と、そう思ったので、
>新体制の響鬼にも、以前と同じように脳内補完してあげてください。
と書きました。

↑ここまで、自分のコメント転載。


まず、
>「こういう解釈もできた。面白いよね」
という視点を30話以降も持ち続けられないのは、
テイストの違いによる印象の変化に戸惑って、
楽しむことを拒絶してしまっているだけなのではないですか?
ということです。

同じレベルでモチベーションを維持できていれば、
従来と同じように楽しむのだって難しくないはずです。

えと、カシャ擁護追加w

カシャが人を捕食しないのは、すでに十分に育っているから。
成長後のマカモーが里に降りるのは「人を食らい続けるため」とは、
規定されたなかったので。

投稿者 汁吉 : 2005年09月28日 15:25

>汁吉さん
お書きになられた「擁護考察」を以前の響鬼であれば
番組内で展開していましたね。
たちばなで異常性に気がつくとか、
追っている担当の鬼が気がつくとか。
あるいは吉野へ報告するという話が持ち上がるとか。
洋館での描写で描くとか。

こういうルール変化に対する説明というものの例を挙げると「夏の魔化魍」の時がそうでした。
巨大ではなく、分裂する。太鼓でしか倒せない。
というルールの変容を、轟鬼の当惑というドラマの形で番組できちんと説明して、描ききりました。

ところが汁吉さんの指摘されている部分はほったらかしな上に猛士たちも気に求めませんよね。
ヨロイ童子や乱れ童子の際に色めきたち、きちんと資料を調べていた、
たちばなの面々が、童子と姫のいない魔化魍、明らかに様子の異なる童子と姫を話題にすらしない。

そこが、「世界観の乱れ」であると思います。
そういう意味では世界観壊れていると思いますよ。

投稿者 景 : 2005年09月28日 15:31

とりあえず、魔化魍を妖怪視するのはおやめください。
妖怪ファンの発言とは到底思えません。
『響き交わす鬼』も、そんなズレた論点で語られているのですか?
また、寺Pがなぜ妖怪という名前を付けなかったのかという意図をまったく汲んでいません。全て個人の脳内でこじつけたイメージを主張しているだけです。
京極夏彦さんにも迷惑がかかりそうですね。さぞかし。

ちゅーかみなさんすいません、真面目に議論するほど倫理性を持った文章を書かれる方ではないようです。
自分も引き下がりますので、もうここは収めた方がよろしいかと。

投稿者 犬面 : 2005年09月28日 15:43

 皆さんの妖怪・伝承的見地からの響鬼についての議論、大変楽しく拝見させて頂いております。

 かなり議論が多岐に渡ってきているのですが、一応本題は「二十九之巻以前・以降の響鬼の変化について」であるようなので、その辺についてです。

 私もまた響鬼は二十九之巻を境に変わってしまったと嘆いているクチです。まぁ嘆きの原因は、色々なのでここで全てを語るのは筋が違うので差し控えますが、以前の響鬼に感じた面白さは、元の世界観を製作された方の「こだわり」の面白さであったなと考えております。

 代表的な部分では、まず、皆さんがご指摘の通り、本来忌み嫌われるべき鬼が、人々を助ける為に正義の味方である仮面ライダーとして存在しているという逆転現象があるのですが、響鬼という主人公にはさらに桃太郎としてのモチーフが与えられているのですよね。ヒビキがいるたちばなの名物はきびだんごであり、また常に持ち歩くディスクアニマルはお供の雉・犬・猿だと思われます。(響鬼の基本的なお供はアカネタカ・ルリオオカミ・リョクオオザル。)
 主役である響鬼の存在自体が、逆転と逆転を掛け合わせて正位置に立った正義の味方であるという事に気付くと、思わずにやりとしてしまいます。
 二十九之巻までは、随所にそういったこだわりが見え隠れしていて、それを見つける楽しみがあったと思います。

 対して、30話以降の響鬼は、物語のスピードが上げたが故に、そういった部分を排除してしまったようで、私の目には見つけることが出来ません。

 まぁ、子供の為に作られた物語に、そういった楽しみは必要ないんだ!と言われればそれまでですが、普段、特撮に見向きもしない私のような人間が、響鬼(の二十九之巻まで)ばかりは楽しく見ることが出来たのは、そういった訳があるからなのではないかと思う所存にございまする。

投稿者 ななうさぎ : 2005年09月28日 18:03

神堂劾さん

>ドラゴンボールの例は、あれもあれで唐突に生じるルールの多い世界でしたので(私はそこも含めて好きですが)この場合ちょっと誤解を招きやすいかな、とは思いましたけど(笑)

ありがとうございます。そのとおりですね(笑)。ポピュラーなものを例に挙げただけなので、ドラゴンボールのオキテ破りっぷりは考えてなかったです。じゃあ、ルール破りの例として、「死んだ人を蘇らせるために気を注入して人を蘇生させたり」の代わりに「京極夏彦先生の妖怪シリーズに出てくる京極堂は陰陽師だから、式神を飛ばしたり、呪文で憑き物を落とす」ならどうでしょうか?(笑)


汁吉さん

>同じレベルでモチベーションを維持できていれば、従来と同じように楽しむのだって難しくないはずです。

そのとおりです。ですから、そのモチベーションの源泉の一つを、ここで語っている妖怪好きの方々は、響鬼における妖怪ルールから得ていたのです。ですから、補完をするなら、物語内で納得させて欲しいし、違和感を払拭しないでは、モチベーションが上がらないのです。色々妄想して、個人個人が独自に今の響鬼の妖怪観を補うのは良いですが、それを押しつけられるのは、困るという事です。汁吉さんがカシャを擁護したように、汁吉さん独自に補いフォローするのは自由ですが、それを

>公式に認められることのない「ボクの脳内設定」に、新体制の作風が合致しないから気に入らないだけじゃないですか!

と書かれたのは、やはり汁吉さん個人の思い入れであって、ここで語り合うべき事ではないと思いますが。なので、やはり今の響鬼を同じモチベーションで見るかどうかは各個人の自由であって、少なくともボクは無理ですし、おそらく東先生もそう感じられたので、かつて「29話までの響鬼を〜」という言葉を書かれたんだと思います。


犬面さん

>とりあえず、魔化魍を妖怪視するのはおやめください。妖怪ファンの発言とは到底思えません。

言葉が足らなかったかもしれませんね。これはあくまで「妖怪的な視点にたった、響鬼における魔化魍の考察」というもとで、仮に妖怪、妖怪と言っているだけであって、同様に、鬼も、あくまで妖怪の鬼ではなく、響鬼ルールの中での鬼として語っているはずです。それは東先生も、以前、京極先生から指摘を受けて訂正されていますから。
何故、妖怪、妖怪と言ってしまうかというと、魔化魍のルーツは妖怪にあるからです。名前も妖怪のそれと同じですし。だから決してズレた論点ではないですよ。きちんと皆さんの意見を読めば、明らかです。
あと、妖怪好きは、妖怪的なものに敏感に反応してしまうんですよ(笑)。だからそのつもりで読んでもらえれば幸いです。


景さん

>お書きになられた「擁護考察」を以前の響鬼であれば番組内で展開していましたね。

そうなんですよねえ。せめてそういった所も丁寧に描いて欲しいのが、妖怪好きのボクの願いです。世界観、壊れつつあるように感じますよねえ。トドロキも壊れてしまいましたしねえ・・・あ!これは関係ないですね。すいません(笑)。

投稿者 ペロー : 2005年09月28日 19:11

>汁吉さん

>新体制の響鬼にも、以前と同じように脳内補完してあげてください。
それはそれぞれ個人の楽しみ方、ということな訳ですよね。
何度も言いますように、東さんは、補完する楽しみを29話以前にはこういう風に見つけられたと言っておられます。つまり「響鬼の前半、僕はこう楽しんだ!」ということなのです。
しかし、30話以降ではその「楽しみ方」が、自分が見るに、ちょっと違いますよ、ということを論点にしているわけです。
それを、「まだこうやって楽しめばいいじゃないか」と(提案ならばともかく)「楽しむルールを押し付ける」のは、汁吉さんが最初の書き込みにて批難した「決め付け」と同じ方向になっておりますよ、と。

また、あえて私の個人的意見を言えば、テイストが違って違和感が発生、それが不快感になって以後見ない、というのは「楽しみ方」としてアリとも思います。
楽しいものを努力してさらに楽しむことは喜びでも、直感で楽しく思えなかったものを無理して楽しむことは、普通は苦痛です。
子供からライダーを取り上げる権利はありませんが、大人が「面白くない」と感じたものに付き合う義務もまた、無いのですから。大人にはそんなに時間がありませんしね。
つまり、汁吉さんの仰るように「30話以降をそれまでと同じように補完して」見るも見ないも(東さんを含め)自由なのですよ。
むしろ、ハッキリ言ってしまえば、モチベーションを視聴者に維持させられなかったのなら、それは純粋にスタッフの失敗、ということです(あくまで、維持させられなかったら、ですよ。最終的に後半も含めて響鬼が大半の視聴者のモチベーションを維持できたとすれば、それは逆に成功、ということです)。

ちなみに私はまだ響鬼を視聴はしていますが、やはり「楽しみ方」は以前とは大きく異なっております。

>景さん
 >寺Pがなぜ妖怪という名前を付けなかったのかという意図をまったく汲んでいません。
これは、どちらにあった情報でしょうか?私は残念ながら記憶にありません……。
前述の「妖怪ファンとは到底思えない」理由も、「京極氏が迷惑する」理由も、ちょっと私には理由とソースが不明のままでした。無知ゆえに申し訳ありません。
これらは「脳内でこじつけたイメージ」ではなさそうなので、ひとつご教授願えれば幸いなのですが……。

あ、ただし、
>真面目に議論するほど倫理性を持った文章を書かれる方ではないようです。
これは景さんの妖怪を愛するあまりのちょっとした失言と思って、上げ足取りは失礼とも思いましたが、やはりどう見ても「脳内レッテル」に相当するかと思いますので、ご注意された方がよろしいかと……。

投稿者 神堂劾 : 2005年09月28日 19:35

>神堂劾さん
私に対する問いかけですが、読ませていただいた限り、
犬面さんに対するものの間違いではないかと思いますがいかがでしょう?

投稿者 景 : 2005年09月28日 22:39

>景さん
うわーっ!
すんません、お名前間違えました(名前が上に来る掲示板になれていましたもので(汗))。
お詫びと訂正を致します。
>景さん→>犬面さん

投稿者 神堂劾 : 2005年09月29日 01:16

ちょっと「鬼・妖怪譚として」というテーマから外れてしまうんですけど、神堂劾さんがお書きになった次のこと、

>むしろ、ハッキリ言ってしまえば、モチベーションを
>視聴者に維持させられなかったのなら、それは純粋に
>スタッフの失敗、ということです(あくまで、維持さ
>せられなかったら、ですよ。最終的に後半も含めて
>響鬼が大半の視聴者のモチベーションを維持できた
>とすれば、それは逆に成功、ということです)。

これに尽きるのじゃないかと思いますねえ。
私の身の回りのことで恐縮ですが、細川茂樹ファンだという女性で何人か「響鬼」を見ているんです。で、当初のうちは特撮なんてと抵抗があったらしいんですが、そのうちの何人かは、ほんとにハマってしまって。で、ほぼ口を揃えて「いい話だ。いまどきこんなにいい話ないよね」というんです。また「特撮だといっても普通のドラマとあんまり変わんないね」とも。で、最近の路線変更については、やはり違和感を感じると。何か違うよね、と。中の一人ははっきりと「チープになった」と申しましたから。ま、その一方で、細川さんさえ映ってれば気にしないという剛の者もおりましたが。

今回の路線変更について、従来の特撮ファンの方は、喜んでいるというか、そう抵抗がないみたいなんですが、上述の彼女たちのように、これまで特撮とは無縁だった人までが見ているということに、番組側はどれほど留意をしているか気になります。
…で、当節、ブームを作るのは女性なんですよね。ここで迂闊な事をして、特撮ファンだけ向いてモノを作っていていいのだろうか、実は新規顧客開発のチャンスなんじゃなかろうか、それを潰しやしないだろうか、などとも気になります。いやね、彼女たち、みんなDA買ってますよ、全種類じゃないけど、まずアカネタカは抑えてますね。

で、こういう事例を見てるものですからね、momoさんが仰る、
>現在の特撮界のハブリシティから判断するに、
>本当に対象層は「子供だけ」なのでしょうか?
というのも非常に実感をもって頷けるのです。

自分のことを振り返ると、小学校高学年では、特撮ヒーローより「太陽にほえろ!」のヤマさんに夢中でしたからねえ……


投稿者 緑鵡 : 2005年09月29日 01:28

ドロタボウの件が出てきたので、そこに一言。

「古い文献や先達からの口伝によって、マカモーの種類や対処法が
代々伝えられ、現場に反映されて来た」
という表現が一貫して行われてきたのであれば、
トドロキが太鼓の練習を嫌がるのも、ドロタボウ戦にギターを持ち込むのも矛盾しませんか?

景さんが言うような、
>たちばなで異常性に気がつくとか、
>追っている担当の鬼が気がつくとか。
>あるいは吉野へ報告するという話が持ち上がるとか。
>洋館での描写で描くとか。

といった説明シーンも、必ずしもリアルタイムで展開を
追うような形で徹底されてきたわけでは無かった。

カシャに関して、さらに擁護するなら、
29話までにも洋館の男女は、
それまでを覆すような新たな実験を繰り返してることが描かれていました。
30話でも洋館の男女が「面白いモノができた」とかなんとかって、実験室で言ってましたよ。
それで、今までにないマカモーが登場することの説明にはなっていませんか?
発見したイブキが「童子や姫を伴わない。今までと違う。変だ」などの報告も行っていました。
(セリフはうろ覚えですんません)

同じレベルで補完材料が投入されてるように思えるのですが。

みなさんの意見を読むと、
「同じレベルでモチベーションを保てているボクだから、
こう感じるだけなんだ」と、さらに思うわけですよ。


スタッフ変更によって、多くの方がブログで意見を寄せてます。
それらの反対意見に白倉さんはトラックバックを打っていません。
それは、ファンである視聴者の感想にまで、口を出すつもりはないからでしょう。

東さんは、一般の視聴者の方ではないですよね。
多くの方に影響力を与える立場の人です。
響鬼という番組を観た事がない人たちに、
「30話から響鬼という番組は面白くないのかも」
なんて印象を与えてしまう危険があります。
従来の視聴者に対しても、東さんの一言で、
印象やモチベーションが向かう方向をコントロールする危険だってあるのですから。

よって、白倉さんが、ここだけに反応する意味は理解できます。

もしかしたらですよ。
「従来のイメージを完璧に模倣する準備がもうすぐできるのに、
準備前の段階で一部のファンを煽動するような行為をプロにされたら困る」
なんて考えてるかもしれないw
(ボクの単なる邪推です。ここに反応されても困りますw)


とはいえ、ここに寄せられるコメントの多くは、
他と比べ白倉さんの目に触れる機会も多いと思います。
自分からケンカを仕掛けたわけですしね。
みなさんのコダワリや情熱が、氏に伝わればいいなと思います。

投稿者 汁吉 : 2005年09月29日 07:16

大変面白く読ませて頂いたのですが、気になった点があったので書き込ませて頂きます。
仮に過去の響が東氏の論述の様な世界観に成り立っていたとしても、

>「姫も童子も全滅したってことッスかねえ、俺たちけっこうやっつけたし……」

轟鬼ならこんな台詞、言ってしまってもおかしくないと思います
(彼のキャラクターなら、世界観と矛盾した事を言ってしまってしまう事も若輩者としてありうるかと)
やはり少々、世界観に拘りすぎているのではないかと。


世界観の矛盾や整合性に関して議論するのは確かに楽しいとは思うのですが、
白倉P氏はそういった設定や辻褄を合わせるという作業に関しては
そこに作品作りの本質は無いと思っているのではないでしょうか?
少なくとも氏のblog上のエントリ、「彼岸のヒーロー」「異界と境界」を読んだ自分にはそう思えます。
氏はここで「役割を果たすヒーロー」達にその矛盾を取り上げつつも"何故我々が惹きつけられるのか?”を中心に論じています。
こういった視点を獲得されて作品を送り出している方に、魔化魍とそれをめぐる細部の世界観の描き方に対してのこだわりに関してのみを論述しても、やはりそれは氏の望む『“鬼譚”という視座から専門的なご指弾』たりえないのではないかと…。

投稿者 エレ : 2005年09月29日 22:33

>必ずしもリアルタイムで展開を追うような形で徹底されてきたわけでは無かった。

確かにその通りです。29話までの響鬼も決して説明シーンを多用していたわけではありません。では、29話以前も30話以降も同じかというと、そうではありません。視聴者にとって何が分かりやすくて何がわかりにくいか、つまり、語りの上手さ下手さがあります。これは視聴者のモチベーションとは全く別次元の問題です。
確かに、物語内のリアリズムを重視するなら、夏の魔化魍のくだりになって烈雷を持ち込むのもちょっとおかしいですし、当然、撃退方法も口伝で教わっていてしかるべきだと思います。しかし、汁吉さんの言うように、夏の魔化魍の撃退法を30話の「童子や姫を伴わない。今までと違う。変だ」のような、説明だけで終わらして、いきなりトドロキが太鼓を使っていたら、これは視聴者が戸惑うでしょう。どんな風に説明を入れても、やはり「唐突だなぁ」と感じてしまいます。

何故かと言うと、これはシナリオを勉強した人なら誰だって知っている、ドラマツルギーの基礎、「説明台詞を多用しない」というものなのです。
例えばドラえもんの中で、ドラえもんがドラ焼き好きだと説明するために「ああ、キミが未来からきたっていうドラ焼き好きのドラえもんだね」というのと、目の前でドラえもんが、嬉しそうに何個もドラ焼きを頬張るのと、どっちの方が自然で視聴者に対して説得力を感じさせるでしょう。
トドロキのドロタボウの一件も同じで、説明台詞に頼らず、トドロキの戸惑い、そして太鼓の修行というプロセスを用いる事で、夏の魔化魍が太鼓でしか倒せないんだ、という事を様々な意味を付与した上で、視聴者に納得させているのです。まず、トドロキという新人の成長や真面目さ、一途さを描き、同時にプロフェッショナルな人間でも、常に鍛錬していかなければならない。人間が成長するという事は努力の積み重ねである、と描いているのです。結果、話の最後にはトドロキの人間的成長と、響鬼という目上への人間への尊敬が生まれ、人間ドラマとして丁寧な仕上がりなったのです。

これはご都合主義ではなく、何が物語の中で重要かという取捨選択、語り手のレベルの問題であり、この場合、リアリズムの基準は、物語の状況ではなく、人間的感情の方に重点が置かれているのです。ですから、30話以降の演出でも、

>洋館の男女が「面白いモノができた」とかなんとか

と語って、ただ説明すればいいという類いのものではありません。視聴者にとって分かりづらい演出がされている以上、それは29話より下手な語り方と言わざるを得ません。
失礼の事を言うつもりはありませんが、カシャへの擁護といい、モチベーションを押し付けているのは汁吉さんの方では?貴方やその他の方が30話でも充分説明的だと主張しても「わかりづらい」と主張している方も大勢いるのですから、モチベーションや視点の押しつけは止められる事をオススメします。

物語内で重要でない事なら、確かに説明を一言入れて「まぁいいや」とすましてしまえばいいのですが、この、何が重要でどれが重要でないかを見極めるところが非常に難しいのも事実です。作者が、「重要でないから説明はいらない」と断じてしまえば当然話は進みますが、しかしこの時、受け手が「変だ?」と感じてしまえば、それはどう取り繕っても説明不足として認知されてしまうのです。もちろん、汁吉さんのように違和感がないと感じられる方はそれで結構です。しかし、東先生やボクは、それがヘンだと感じ、その違和感を説明するためにここで語り合っているのです。もちろん、これは意見の押しつけではありません。
ですからやはり、30話以降の語り方は、少なくともこれをヘンである、と感じている方々全てにとっては、やはり『面白くない』し『下手』なんです(これも、そう感じろ、と押し付けているのではありませんよ(笑))。
何故なら、29話以前は上記の理由で、語り方が実に巧みだったのに対し、30話以降は杜撰だからです(またはボクにはそう感じられるからです。恐らく今の響鬼に否定的な人のほとんどはそうなのでは?)。


>自分からケンカを仕掛けたわけですしね。みなさんのコダワリや情熱が、氏に伝わればいいなと思います。

こだわりではありません。今の響鬼に否定的な方全てにとっての、駄目だと思われる客観的事実を語り合っているのです。もちろん個々人によって客観的視点は異なりますし、主観や感情論も混じっているでしょうが、少なくとも、みなさんのご意見を読んでいる限り、一部を除いて、極めて感情に流されず、理論的に語られていると思いますよ。
あと、他のサイトでどうなっているかは知りませんが、ここで白倉氏にケンカを売った覚えはありませんよ。


エレさん

>白倉P氏はそういった設定や辻褄を合わせるという作業に関してはそこに作品作りの本質は無いと思っているのではないでしょうか?

もしそれが本当だとしたらこれは由々しき問題です。何故なら、ボクらが語っているのは、オタク的なただの細かい設定論ではなく、響鬼という作品の根幹に関わる、世界設定の矛盾なのです。つまり、ドラえもんなら、「ドラえもんはセワシ君の頼みで未来から来た」とか、「のび太は勉強ができない」という事を、説明不足でいきなり「ドラえもんに頼んだのは、実はジャイアンの孫だった」「のび太は実は天才である」という風に、物語の基本設定を勝手に揺るがしてしまうのと同じレベルの問題が響鬼に起きつつある、または起きる兆しをどんどん作っており、しかもその現在の状況に白倉氏は気付かれていない、という事なのですから。…もしそれが本当なら、これは白倉氏が非難を受けても仕方ないですねえ。…本当なら、ですが。
もちろん、白倉氏ほどの方なら、そんな愚は犯さないと信じています。これは嫌味ではなく、信頼と期待です。

投稿者 ぺロー : 2005年09月30日 00:56

>汁吉さん
私が「世界観の乱れ」と呼んでいるものは、「物語のあり方の変容」あるいは「語り方の変容」なので、
(想像力で)補完できる、できないの問題じゃないかとおもいます。

想像力豊かな人であれば、どんな作品でも
想像力で補完することができます。

人の目を気にせず鬼に変化。
逃げた童子を追跡するのを邪魔する、仕事熱心な猛士のメンバー。
逃げた童子を追跡しない鬼。
猛士の仕事をしなくなった、たちばなの面々。
今までと違う魔化魍。
今まで起きた、これらは汁吉さんのように響鬼を注意深く見て
響鬼を愛している方なら、愛と想像力で容易に補完できるでしょう。

多分持っている愛と想像力が大きければ、
歴代ライダーが助けに来たり、突然巨大ロボが現れたり、
放映中の戦隊物とクロスオーバーして、勇気が魔法に変わっても、余裕で補完できるでしょう。

実は私はこういった補完は好きですし、
やろうと思えば容易にできます。

でも、視聴者が脳内で補完したことは、
「物語の中の現実」ではないんです。
それは、「物語を理解すること」とも、またちょっと違った「視聴者の想像」なんです。

今まで視聴者が想像力で補完しないで安心してみていられた物語が、視聴者がより多くの想像力を用いて補完することを要求し、瞬間移動などの奇妙なご都合主義から生まれた現象に対し、より多く目をつぶることを要求することになった。これが私の言いたかった「世界観の乱れ」です。

ちなみにおっしゃっている轟鬼の太鼓稽古の件。
仰る通り、一見、不可思議というか、謎が多かったですよね。

ひなかは太鼓稽古を続けるよう説得していたこと。
斬鬼が太鼓の修行をしてたことや、響鬼が太鼓以外の修行もしてたことを直接轟鬼には伝えず、他の人から伝えられていること。
ドロタボウ戦。
響鬼は、ギター持込を止めてはいましたが、そんなに強くは止めずにいたこと。これらは「物語上の現実」です。
一見不思議ですよね。

「一言、たった一言、教えてあげればいいのに。」

でもなぜ、先輩鬼やひなかは伝えなかったのか、伝えないことで、轟鬼に何を教えたかったのか。
しつこいくらいに、何が起きているのか、ルール変化を明示しないで、それでも知らせようとする物語の運び。
かつての響鬼の特徴でもあったものです。
ですから、私はこの話を例としてあげました。

汁吉さんはそこから何かを感じ取られませんでしたでしょうか。
語られていること全てを汲み取るのは誰にだって不可能だとは思います。
でも、私にはあのエピソードの中に仰るような矛盾は見えませんでした。
多分汁吉さんなら、もう一度観なおせばわかると思いますよ。

鬼たちもまた成長途中で、いろいろなレベルの大人がいて
成長していく。そんなところも、また響鬼の魅力だったと思います。

あと、ご心配の件。
ご無用だと思いますよ。
旧来の響鬼が失われたのを嘆くのは当たり前のことです。
重要スタッフが変わってテイストが変わったのですから、これは当たり前です。
嘆く人は嘆く。白倉Pや井上さんのファンの人は喜ぶ。
汁吉さんのようにモチベーションの変わらない方は変わらない。
それでいいじゃないですか。

気になったとしてもここでモチベーション論や、補完考察を挙げても、モチベーション低下や反論が論じられるだけで、効果がないか逆効果だと思います。

むしろ高い士気を活かして、現響鬼の旧来と変わらず“鬼譚”としてすばらしい「物語上の現実」を提示していただけるとここの趣旨にも反しないでしょうし、私としては幸いなのですが、いかがでしょうか。

投稿者 景 : 2005年09月30日 01:36

トドロキ発言に違和感を感じる側の一意見として

>「姫も童子も全滅したってことッスかねえ、俺たちけっこうやっつけたし……」
>轟鬼ならこんな台詞、言ってしまってもおかしくないと思います
(彼のキャラクターなら、世界観と矛盾した事を言ってしまってしまう事も若輩者としてありうるかと)
やはり少々、世界観に拘りすぎているのではないかと。

トドロキは、一見こういった台詞を言ってもおかしくないと思われがちですが、その実
・強くなっていく魔化魍に対し、撃破した後も「場の清め」を行う
・山ひとつ隔てて出現した二体の魔化魍に対して、異変の予兆を、師匠のザンキよりも早く口にする
・魔化魍探索時に、ある程度の位置は予測できていても裏をかかれないようイブキにも探索協力を依頼する
など、ザンキさん曰く「誤解されやすく」、それでも、こと魔化魍に関しては真摯に対峙してきた姿が、きちんと描かれてきました。

なので、従来のトドロキであれば、ナリを潜めた相手に対し
「一体、ヤツラ今度は何を企んでいるんでしょうね?とりあえず油断は禁物ッスね」
と警戒はしても、冒頭のような軽はずみな発言はしないキャラクターだったと思えるのです。

ただ、現在の響鬼で、「子供」にわかりやすいキャラクターとして、お調子者に見えて、実は・・・といったように描くよりは、
お調子者はお調子者として、見たままイコールに「改良」されているとすれば、「成果が出ている」といったところでしょうか。

投稿者 momo : 2005年09月30日 10:36

>必ずしもリアルタイムで展開を追うような形で徹底されてきたわけでは無かった。

これを認めてくれるのであれば、29話までの数話を取り出して、
そこだけを観ても「鬼譚」として成り立っているわけではない
ことも理解して貰えるのではと思います。

我々に提示された新体制の番組は、30〜34話の4話だけです。
そこだけを観て「鬼譚」として成り立っていない。
と言うのは、少し早いとは思いませんか?

それまでも29話かけて、少しずつネタを散りばめた結果、
総合的に「鬼譚」としての解釈も楽しめる番組になっていたのだと思うのですが。


語り口の変化による戸惑いは仕方のないことだと思います。
夢枕獏先生が書いていた物語を、
途中から続きを菊池秀之先生が書いている。
今回の印象の変化は、そんな感じの現象だとボクは思ってますので。

ので、ペローさんの意見には、
夢枕先生のファンが、菊池先生の語り口を「下手だ!」と断言するような違和感を持ちます・・・w


>景さん
ボクは、29話までの数話(4話相当)の、
ドコを切り取っても「鬼譚」として成立しているとは思っていません。
よって、30~からの4話だけを切り取っても、
みごとに「鬼譚」として成立している必要はないと思います。

仮面ライダーとしては成立していましたね。

議論をする以上、自分の主観をそれなりに正当化しなければなりません。
よって、押しつけと感じるかもしれませんが、それもただの「印象」ということでお許しください。
(って、みんなの意見だって「押しつけ」だよ〜w)

投稿者 汁助 : 2005年09月30日 13:10

>汁吉さんはそこから何かを感じ取られませんでしたでしょうか。
>語られていること全てを汲み取るのは誰にだって不可能だとは思います。
>でも、私にはあのエピソードの中に仰るような矛盾は見えませんでした。
>多分汁吉さんなら、もう一度観なおせばわかると思いますよ。

ここにレスをするのは、またムヤミに話題を広げかねないので控えたかったのですが、
そろそろ最後のレスにしようと思うので答えます。

・例のトドロキとヒビキのやりとりについて

職人などの「見て覚えろ」な感覚で言えばアリだと思います。
サラリーマンの世界でも、同じような場面は多々あるので、
一般的な処世術を鍛える上でなら、あの表現は悪くないと思います。

人の命を預かる職業のプロとしては×。
伝達ミスや連絡ミスで犠牲が増えたり被害が拡大するなんて、
もっての他です。

正直「微妙だな」と思いましたw

あのシーンは大好きですけどね。
自然をバックにトドロキとカスミが語り合うシーンなどは、
非常に印象的で美しいシーンだと思います。
映画的(邦画)と言いましょうか。
そういう、BGMの使い方も含めた映像表現のセンスの良さは、
旧響鬼の素晴らしさだと思っています。
(監督が変わったわけではないので、ここらへんは今後も期待してます。
ロケーションの変化による違いは拭えないだろうけど)

・議論について
おそらく、お互いが言葉を尽くしても平行線だと思われます。
ので、ここらへんで退散しようと思います。
ただ、勘違いしないで頂きたいのは、
「鬼憚」「陰陽道」的なネタを「仮面ライダー響鬼」の中に見つけて、
ニヤニヤ喜んでいたのは皆さん同様、ボクも同じです。


それでは、失礼しました。

とか、いいつつ覗いていますので、
煽っていただけたら(レスを頂ければ)登場するかもw
お邪魔じゃなければいいなぁ。

投稿者 汁吉 : 2005年09月30日 14:06

>汁吉さん
最後とのことで手短に。

>(って、みんなの意見だって「押しつけ」だよ〜w)

ここまでの様々な方の弁を押し付けと感じえるのなら仕方ないことなのでしょうね。
それこそ私が先に述べた、「伝えられなかった者」の不手際です。
不快に思われましたら(その意味では)謝罪いたします。

やはり貴方は、一番最初の書き込みがあまりに感情的、かつ挑発的(これは終始でしたが)にすぎたのが印象として悪く左右したところもあるのでしょう。
後に述べられた弁そのものには首肯すべき点があったものですが、やはりあの前半の書き込みからの流れで、少なくとも私は「押し付け」と感じえてしまいましたのも事実です(正直に言えば、私個人としては、最初の書き込みなどは一般の礼節を欠いている、とすらも思いましたよ?)。

つまるところ、これが「印象」ということだと思うのですがいかがなものでしょうか。

投稿者 神堂劾 : 2005年10月01日 05:06

東先生のこのブログでも推奨されている『仮面ライダー響鬼 音の巻』を購入して思ったのですが、旧・響鬼の良い点の一つとして、「場所・空間」の素晴らしさというものを感じました。これは例の高寺氏、更迭の原因だと噂されている「ロケの多用」そのものでもあるんですが(苦笑)、そういうテレビの裏事情はともかく、作品として見た場合、この地方ロケによる空間演出というのは、やはり秀逸だったなぁ、と思うわけです。

まず、写真を1枚見ただけで、その状況が分かりやすくなり、場所だけでどんな魔化魍の話だったのかが喚起されやすくなっていると感じました。これは東先生の述べられた、魔化魍がその土地土地の性質を取り入れているという事にも掛かってきますし、加えて見た目のロケーションも非常に美しい。さらに日本の自然風景と一緒にいる事で、作品中の鬼と呼ばれる存在が、日本土着の『鬼』(この場合、中国、西洋における同名のそれは含まない)と同じ流れの一つである事と、彼等は紛れも無い、『純・和風ヒーロー』だと言う事を巧みに見せてくれたように思います。これは制作者のこだわりであったのかもしれませんが、これも美点の一つであったなぁ・・・と思うわけです。

これに対する反論ではなく、このように、もし今の響鬼に関する美点があれば、どなたか言っていただけないでしょうか?残念ながら、ボクには今の響鬼にこのような美点を感じられないので・・・。そういうのがあれば、もう少し今の響鬼の見た目も変わるのかな?(苦笑)

>汁吉さん

>それまでも29話かけて、少しずつネタを散りばめた結果、
総合的に「鬼譚」としての解釈も楽しめる番組になっていたのだと思うのですが。

そうであるというなら、失礼ですがもう一度ビデオなりDVDなりで、旧・響鬼を見直した方が良いと思いますね。29話かけてと言いますが、必ずしも旧・響鬼は連続ドラマ的に29話分、話を続けてきたのではありません。1話完結の話でもありませんが、ほとんどが2話セットで、一つのストーリーを語ってきました。

そして話中の矛盾点や、『約・2話1ストーリー』内で視聴者が感じた違和感があれば、必ずその中で、それらの矛盾は払拭されてきました。
もちろん汁吉さんのおっしゃるように、その中でも、大なり小なりネタは散りばめられてきましたが、それは『伏線』というものです。これらストーリーのキモとなる謎を、普通、いきなり途中で言いますか?謎は謎として視聴者に提示して、「何だろう?」と引き付けるからこそ、謎たりえるのです。しかし、それはあくまでマクロな視点に立った時の謎。ストーリー上での矛盾点とは違います。
ストーリーにおける矛盾点は、特に受け手側が違和感を感じたならば、そのストーリー内で必ず解決しないと、「面白くなさ」を生んでしまいます。

翻って、汁吉さんの力説されているカシャや、今の響鬼でのトドロキの台詞、それに、「新体制は4話だけなんだから、評価はまだ早い」というこれらの点はどうでしょう。
カシャがあんな形態になったにも関わらず、何故、猛士のリアクションが薄いか。これは長期に渡って引っ張る謎ではなく、明らかな矛盾点です。何故なら、かつての旧・響鬼におけるリアクションと比べて、大いに落差がありすぎるから(具体的には上の方のコメントで景さんやmomoさんが説明されています)。リアクションが薄いなら、これはカシャのストーリー内で、何らかの説明がなければ、以前の響鬼と明らかに齟齬が生じまてしまいます。
次にトドロキの台詞。これも、カシャにおけるストーリー内での台詞ですから、その話中で矛盾を説明しなければ、旧・響鬼と繋がりません。

これらの例だけでも、現在の響鬼と今の響鬼は、同じものたりえません。かたや、ストーリー内での矛盾点は、きっちりと消化しており、片方は矛盾点をほったらかしという風にさえ受け取れますね。

旧・響鬼は決して、ダラダラと29話も時間をかけてやってきたのではなく、2話セットできっちりと一つのオチをつけられるように、話を積み重ねてきたのです。


これでも

>我々に提示された新体制の番組は、30〜34話の4話だけです。
そこだけを観て「鬼譚」として成り立っていない。と言うのは、少し早いとは思いませんか?

と、言えますか?逆に言うと、今の響鬼は、『もう』4話もたっているのに、まだ何一つ、ストーリー内での矛盾点を解決できていません。これはどうでしょう。とっても悠長な作り方ですし、この先矛盾が解決されるとも思えません。何故なら、すっきりと解決できるような『伏線』が、何一つ提示されていないから。

ですから誹謗中傷をしたくはないのですが、

>夢枕先生のファンが、菊池先生の語り口を「下手だ!」と断言するような違和感を持ちます・・・w

というのは、はっきり言ってその通り。下手なんですよ。あ、もちろん菊池先生の小説が下手だと言っているのではないですよ(笑)。
今の響鬼が旧・響鬼と同じレベルのストーリーを提示できるなら、4話もかけて、未だに矛盾点をほったらかしにしている現状に対する、釈明が必要だと思います。
もちろん、汁吉さんのおっしゃる、「脳内補完」などではなく、誰が見てもわかる、番組内での説明が。


>って、みんなの意見だって「押しつけ」だよ〜w

では、どこのどういった点が押しつけかを具体的に説明して下さい。ここで語っているのは、ある意見に対する論理的な矛盾があれば、それを論理的に追求するという行為です。これは押しつけではありません。押しつけとは、「こういう風に見て下さい!」と言う事で、ボクらの行っているのは、どこがおかしいか。何故おかしいか。どうして、どのような理由でか。それらを意見を出し合って解決していく行為であり、「見ろ!」とは言っていないと思います。
それに、押しつけと貴方がみんなに言った時点で、自身の論理的矛盾点を自ら認めたのと同じなのですよ?なので、押しつけや中傷、感情論はなるべく抑えて、論理的に破綻している部分をご指摘なさったらどうでしょう?(これも押しつけではありませんよ(苦笑))


>おそらく、お互いが言葉を尽くしても平行線だと思われます。

そうですね。ボクも半ば誹謗中傷になりかけているので、正直こういうのはイヤですね。なので、意見の押しつけは、やはりやめたいです。「こう見ろ」と言われているようで、これはやはり迷惑ですね。
汁吉さんが現在の響鬼にとても愛着があるのはわかりましたので、これからは、現在の響鬼における良い点、美点などを言っていただけると良いのでは?批判は、批判を生むだけですし。
これも押しつけではなく、一つの提案みたいなものです。聞き流していただいても結構ですよ。

投稿者 ぺロー : 2005年10月01日 19:23

>汁吉さん
レスありがとうございました。

とりあえずこのお話はおしまいでいいかなとも思ったのですが、みなさんがレスされているので、一応つられて書いてみます。

とりあえず、轟鬼の話。
いつの間にか、矛盾が、微妙に変化していますねw
まあ、それはどうでもいいこととして。
そこの微妙の話。
知人とよく話題になる話なんですが、確かに汁吉さんの指摘された点と同じ点で、微妙だと思います。
響鬼が非常に子供っぽい側面も出していますし、好みがはっきり別れるところですね。

私は汁吉さんと同じような補完(補完行為なので以下想像です)で、以前響鬼が自分が弟子を取るなんてとても…的なことを言っていたのと絡めて、結構響鬼も子供っぽい側面があって、機械と同じく、教育的なコミュニケーションが苦手なのかなとか考えてみたりしました。

で、一番の微妙な非効率的かつ、組織の存在意義的にも致命的になりかねない教育行為。
そのこと自体は矛盾とはいえないと思うのですが、それについてはすでに書きましたので、割愛して。
あれって猛士が近代的組織の形態を持ち得ておらず、前時代的な組織であることの現れなのかな、とも想像してみました。今でもそういう泥臭い徒弟制度地味たことをやっているところは多く残っていますが、そういうところの現れなのかなと。
カッパのときも声が変わってしまうのを恐れて、毎回カスミには一人で出かけていたらしく、カスミがそのことを知らないというシーンがありましたよね。
案外猛士というのは、そう言う古臭い組織なのかも知れません。
まあ、とりあえず私は、そう言う風に勝手に想像してみて楽しんでいました。想像なんですけどね。

で、それで、あのシーン。
あの頃の響鬼は本当に良かったですよね。ロケばんばんやっていたこともそうですが、カメラワークも秀逸で。
今後もカメラワークには凝って欲しいところなんですけど。装甲響鬼の回ではちょっと戻って来たかな?って感じだったので今後に期待でしょうか。
しばらくの分は予告を見る限り駄目っぽそうですが。

実際、たいしたロケができなくてもそれっぽく見せることは出来るはずなんですよ。アングルで上手い具合に人工物を映さないように気をつければ、最近ロケによく使われるようなところでも、いくらでもごまかしは効きます。
本当はプロの人たちはそれが出来るはずなんです。
昔すんでいた近くが良く某番組のロケに使われていたり、通勤先がクウガで使われたりしてたんですが、
本当にまるで別の場所のように仕上げてしまってました。

出来れば今後も、予算がないならないなりに、脚本の完成度ともにそういうところでも頑張ってほしいですね。

あと、最近の話。やっぱり鬼譚として厳しいですか…。
いろいろグズグズなのは分かっているんですけど、何か新しい視点があるんじゃないかと、ちょっと期待しちゃってました。早く鬼譚としても楽しめる部分が早く成立してくれるといいですね。
番組内でも、何か試行錯誤している雰囲気は感じるので、出来ればいい方向に行ってほしいものです。

それでは。お相手していただきありがとうございます。お疲れ様でした。

投稿者 景 : 2005年10月02日 00:53

はじめまして。
みなさん真剣に、自分なりの響鬼の楽しみ方を追求しているのだなぁと、感心しつつ読ませていただきました。
わたしは旧体制擁護派ですが、それはまず置いといて
ドロタボウ戦のことに触れようと思います。

ドロタボウの話(修行編)は、旧体制のなかでもちょっと違和感のある話だったと思います。
普通なら轟鬼の疑問(なんで俺まで太鼓の修行を?)にはすぐに答えてもよさそうな響鬼さんが、
「後輩は黙って先輩のいうことをきけばいいんだ」みたいな突っぱね方をしていました。
普通の話ならありえない態度です。

あの話は、「絃を使ってはいけない魔化魍もいる」ということをメインに見せるために、あえてあの構成にしたのだと思います。
斬ると厄介なことになると知ってて、烈雷の持ち込みを止めなかったのは、
「一度身体で経験したほうが、理解が早い」と思ったからかもしれません。
ただ、響鬼さんも轟鬼のことは「失敗したら猛省するタイプ」だと知っているはずなので、
ちょっと意地悪が過ぎるんじゃないの?と思いながら見ていましたが(笑

響鬼ベルトの出来がもうちょっと高級感があれば、
トイザらスかララビットマーケットあたりで
色違いの火炎鼓+音撃棒セットを販売しても、
大人は買ったと思います。

話は変わりますが、ここからおもちゃの話を。
烈火は話が進むにつれて微妙にバージョンアップしていたので、
展開にあわせて「火炎剣バージョン」のおもちゃ(火炎部分が光る・音が出る)などがあってもよかったと思います。

ただ個人的に、今年のおもちゃは例年に比べて、ちょっとワクワク感が足らないような気がします。
龍騎や555、ブレイドのおもちゃは、モードチェンジやカードの種類で違う声が出るので、劇中の臨場感があってよかったように思うのですが。
(所有しているわけではないので、あくまで推測ですが)
そういう意味で、旧来の響鬼は
「TVドラマ視聴者に優しく、スポンサーに優しくない作品」かもしれません。

投稿者 あめの : 2005年10月08日 13:21

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