『歌姫の秘石』/烏本 拓
歌姫と銘打たれた女の前で、数人の男が膝を地につけて土下座している。女の上に飾ってある堤燈の淡い光が丁字路を妖艶に照らし、男達は影と同化して動かぬ黒石のようである。そのおどろおどろとした光景は付近の住人を圧倒した。支持者や愛好者は声を揃えて音楽に於ける極北的存在だと云うが、付近の住人からは蛇女だとか鬼女だと云われ忌避される存在であった。
「もうあの女のとこ、いかんでよ」
國男の嫁、登紀子がいくら云っても聞く耳を持たない。彼は家の中で一日中憑かれたように歌を歌っていて、彼女が仕事から帰っても気付かぬ振りをしてやめなかった。唯一口を開くのは食事の間だけ。とはいえ一貫して歌姫の話で他の話題が上る様子も無い。
昔、稚気からか、私も連れてってと登紀子が口走った。その途端、國男の形相が変わり、血走った目を左右に散らして、一見さんは醜いとか通過儀礼が厳しいからとか、ぶつぶつと訳のわからぬ事を云ったきり布団に入ってしまった。その日から登紀子は嘴を容れぬ生き方を努める事に決めた。
週末の夜になると従来歌姫の処へいく國男であったが、今日はどういう訳か家から出ようとしない。登紀子は隣にいる國男が慣れないらしく、怪訝な表情を浮かべながら三味線をしゃんしゃんと鳴らして不安な心持を紛わした。何か云いたそうな國男の顔を彼女は恐る恐る窺った。すると彼はにやりと笑みを浮かべ、
「もういかないよ。あいつが歌心を落としてからどうにも興味が湧かないんだ」
と云って、笑った。彼女も一緒に笑った。
――今宵は二人の溝を埋めるかの如く愉快な宴である。登紀子が三味線で弾き語り、國男が陽気に踊る――
翌朝、登紀子の側には枕とは別に二つ、三つ……。否、四つ、五つと土下座する人間が石のようであった。
投稿者:kazuto 2007年07月31日 18時54分
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