『朝が来た』/山本ゆうじ
まずい、
と俺は思った。この駅には特急は止まらない。
線路に落ちたその男と一瞬、目が合ったのだ。いや、実は落ちたのか、飛び込んだのかはよく分からない。はっきりしているのは、少なくとも目が合ったその瞬間は
(助けて)
と、その目が無言で叫んでいた、ということだけだ。だが、何ができるだろう。三秒後には特急が通過し、不幸な事故が起きた。
その夜から、「それ」が始まった。深夜にガンガンと誰かがアパートの部屋の扉を叩く。開けても誰もいない。閉じると、しばらくしてまた誰かが叩く。ひたすら、その繰り返しだ。いたずらではないことはすぐに気づいた。いつもはステレオのヴォリュームを少し上げただけで怒鳴り込んでくる、隣部屋の住人が何も言わないのだ。この音は俺にしか聞こえない。
俺は恨まれることは何もしていない。目が合っただけじゃないか。
たまりかねて知り合いに相談すると、霊能者とかいう人物を紹介してくれた。化粧と香水の匂いのきついその中年女は、ひととおり話を聞くと、朝になるまでは絶対に扉を開けるな、と言っただけで一万円をかっさらっていった。
「それだけ守ってれば、死にはしないよ」
まったくありがたい助言だ。
すでに一週間が経とうとしていた。音は依然として続いていた。耳栓も役に立たない。睡眠不足からくる頭痛で、どうにかなりそうだった。時間の感覚がなくなった頃、ほとんど気絶するように微睡んだらしい。目が覚めると、あたりが明るい。ああ、ようやく朝か。音も止んでいる。
目をこすりながら、よどんだ空気を替えようと、扉を開けた。
外は真っ暗だった。
投稿者:takazawa 2007年08月01日 2時07分
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