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『トロイの人形』/ヒモロギヒロシ

「という逸話があるんだよ、この人形には」
「あなたはそんな物ばかり貰ってきて……」
 怖がりの妻になじられた。夜ごと髪が伸びたり朦霧を吐いたりシルク・ドゥ・ソレイユみたいに宙を舞ったりする市松人形なんて俺だって怖い。しかしこの程度のリスクを負わねば引篭り息子の荒療治など出来はしまい。
「内からの切り崩しだ。たかみちの部屋にこれが棲み憑けば、怖くて部屋から出てくるぞ」
 息子は部屋中に無数の人形を陳列しているほどの人形愛好家なので、芳枝(人形の名前)を与えると言えばさぞ喜ぶことだろう。
「トロイの木馬とも知らずにな。うはは」
「受け取りませんよきっと。あの子のフィギュアとこのお人形は根本的に違いますから」
「えっ。人形なら何でもいいんじゃないのか」
「萌えも色気もないお人形には興味ないのよ。幼女属性だけで押し切れるものではないわ」
「随分とあいつの趣味に理解を示しているんだな、お母さんは。ちょっと慈母が過ぎるぞ」
「まず私から歩み寄るべきと思って……」
 妻の話では、息子の嗜好のベクトルはメイド服や巫女装束といったトラディショナルな被服よりも、ブルマーやスクール水着のような健全露出系に向いているらしい(それならお前、勇んで学校に行けよ。と俺は思う)。
 衣装を特注した業者に何度送りつけても、翌朝には郵便受から顔を覗かせて微笑んでいる人形の怪奇。やむなく俺が採寸して電話でサイズを伝えることになった。居間で芳枝の着物を脱がせていると背後に粘つくような不快な視線。そろそろと振り向けば、蒼白い顔の息子。裸に剥いた人形のバストを計測する俺の背中を形容し難い表情で見つめていた。
 翌週から息子は学校に通い始めた。どういう心境の変化か、部屋の人形は全て処分したらしい。今や我が家に残る人形は一体のみ。「5の2よしえ」の名札を縫いつけたスク水市松人形の濡れた黒髪は、押入れの奥の奥で今宵もすくすくと伸び続けている。

投稿者:takazawa 2008年07月21日 15時54分

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