『石碑の上の男』/わんだら
「水をいっぱいもらえないか?」
小学5年の夏休み、せみ採りに行った神社で頭の上からそう声をかけられて驚いた。何かがのどに引っかかるような、ぶつぶつと途切れるような口調だ。
見上げると、8月も終わりに近づいたというのに、まだ照りつけるような太陽を背にして、黒々とした影が私を見据えていた。
いや、逆光で黒いわけじゃない。黒い上下のスーツ姿。ネクタイはしていなかったが、同じく黒いワイシャツは首元のボタンまできっちりとかかっていた。短く刈り込んだ髪に、妙に尖ったような口元と丸い目をした真っ白な顔が印象的な中年の男だった。
男は、鳥居の近くにあった子供の背丈ほどの石碑の上に、胡坐をかいていた。石碑に上ることは禁じられているのに。入り込まないように柵がめぐらせてあったのだ。
「水なんて持っていないよ」と、私は答えた。実際、虫採り用の網と籠しか手にしていなかった。<知らない人に道で話しかけられた時>という夏休み前に与えられた注意が頭の中でぐるぐると回っていた。
「持ってきてくれないか?」男は、重ねてそう言った。何と返事をしたかおぼえていない。男に背を向けて一目散に逃げ出したからだ。逃げながら考えていた。あの石碑は先端が尖っていて危ないから柵がしてあるのだ。あの上で、胡坐をかけるだろうか?と。
あれから何十年も経った。ニュースが故郷の町での子供の失踪を伝えている。あの神社の石碑の柵に、その子の空の水筒がかけてあったそうだ。
「水をいっぱいもらえないか?」と言ったあの男の声が耳について離れない。子供がいなくなったのは私のせいだという気がする。明日、私は水筒に水をたっぷりと入れて、あの石碑のある故郷の町を訪ねてみようと思っている。
投稿者:takazawa 2009年07月06日 3時25分
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