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『でいだら』/石居椎

 夏なのにシチューなど作っている。娘は午後から出かけていた。疎遠気味だった彼氏からの呼び出し、内容は凡そ察せられる。親としてはどう接するか悩んだ末の娘の好物だ。
 ふと気付くと雨が降っていた。傘は持っていっただろうか、迎えに行くべきか迷っていると娘が帰ってきた。僅かに湿った服。上気した頬でお母さん、と呼ぶ。さっきね――― 
 同じ道を回っている気がするのは、頭の中もぐるぐると同じ言葉が巡っているからかもしれない。他に好きな奴がいる。想像も覚悟もしてたけど、本物の台詞は効果抜群で、結局最後は顔も見ずに走り出していた。
 暑いのに寒い。田圃の蛙、山篭りの蝉。がちゃがちゃと騒がしい声に嗤われているようでとっても惨め。生温い風が吹いて夕影が翳る。アスファルトに黒く染みが浮いたかと思うと、ざばーっと雨空が落っこちてきた。
 水滴が背中に圧し掛かる。歩く気もしない。
 このまま、死んでみてもいいかな。そう思って顔を上げ目を瞑った。濡れた服が肌に透ける。汗は水に溶けて、身体と感情が冷めていく。ただ何故か、目の周りだけが熱い。
……突然、体を包み込む雨音が止んだ。雨にさえ見捨てられたんだろうか。絶望的な気分で瞼を開くと、
 空に穴が空いていた。
 ちょうど頭上。コンクリ色の雲が失せ、その向こうに朱く空が覗いている。その形がまた不思議だ。まるで大きな誰かさんが掌を当てて、よいしょと押したような手形の穴。
 掌がゆっくり動き出す。拭き掃除でもするように雲が除けられ茜空の道が描かれていく。歩け。そう云われた気がして慌てて道を追いかけると家に辿り着いていた。振り仰ぐ空は元通りの雨曇り。大きな手形は何処にも無い。
 でも、汗の浮いた体は火照っていて―――
「なんだか、お腹空いちゃった」
 そう言って娘は笑う。涙の跡に気付かない振りをして、シチューがあるわと返事をした。

投稿者:takazawa 2009年07月20日 20時25分

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