『海鬼燈賣り』/山本ゆうじ
ろくに本を讀まぬ編輯者との話し合ひが決裂し、心を鎭めんと足の向くまゝ歩きだした。いつしか神保町から不忍池を渡り、氣づくと淺草寺まで來てゐた。境内が妙に姦しい。あゝ、今日は四萬六千日であつたか。葦簀の屋根が連なり五彩の風鈴が搖れる夏の風情に鬱屈をしばし忘れた。燒きむすびだらうか香ばしい葱味噌の香りも漂つてゐたが、年に一度のほゝづき市。出店の多くはほゝづき賣りである。すでに日も落ちて闇が急に深まり、裸電球が眩しく照り輝く中、賣り手はこゝを先途と威勢のよい賣り聲を上げ、鉢の底を片手の掌に載せてずいと掲げる。いづこかで見た小鬼の像が如くである。どちらを見てもほゝづきであり、賣る品に大差はない。代はり映えのせぬ店の中で「海鬼燈」の看板を掲げる店にフト足が向いた。
「お兄さん、買つてゆかないか」屋臺から二十代半ばの女が微笑みかけた。訛りからすると地方出、廣島あたりか。臺に竝ぶ鮮やかな海産物の赤は、橙を帶びた陸鬼燈とは異質である。
「かうやつて鳴らすのサ」皺だらけの海鬼燈を瑞々しい脣に押し當てる、とギウー……となんとも切なく不思議な音がした。ハテこふいふ音だつたらうか。
「さ、やつてみな」とそれを手渡された。中はとぷり、と液體が入つてゐる。私も口を當てようとしたとき、誰かが亂暴にぶつかつて私は海鬼燈を取り落とした。水風船のやうにそれは儚く割れ、土の上に小さな赤い海ができた。蒲公英色の浴衣の女兒が立ち止まつた。かゞみ込んで指を伸ばしてそれを舐めると、母親が慌てゝ引き立てゝいつた。少しためらつたが私も指を伸ばした。やはり海と同じ潮辛い血の味がした。
目をあげると「海鬼燈」の看板はどこにも見えなかつた。
投稿者:takazawa 2009年07月21日 9時55分
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