『蛾』/我妻俊樹
神田の何とかという店で先にやっているから来るといい、と留守電が入っていた。店の名前は何度聞き直してもわからなかった。こちらから掛けても繋がらないので、どうせ帰り道だからと私は神田で降りてAたちの行きそうな当てを回ってみる。思いつく店をすべて覗いたがAは見あたらない。思えばもう何年も前に彼の葬儀に花を贈っている気がして、ならば今さらこんな所で会えるはずもないのだ。気が迷っているなと顔を拭い帰りかけると、携帯にまた伝言がある。Aの声で、河岸を替えて○○にいるからという連絡だった。○○は入社した頃一度だけみんなで行ったことのある店のように聞こえる。たしかめるため電話すればやはり繋がらないので、私は八重洲に移って記憶を頼りに路地の奥から奥をたどっていった。雨が落ち始めた。はたしてその名を記した看板が道端に置かれた植木の陰でひびわれている。戸口にあかりがなく、暗い所に目が慣れるまで立ち尽くしていると、こっちだよと懐かしい声が掛かる。ふり向くとAがビール瓶を掲げ手招きしていた。腰も落ち着かぬままコップをあけるよう促され、つぎ足された泡からふと顔を上げれば、Aのほかは見知らぬ顔ばかりならんでいた。どういうメンツなの、と声を低くすれば××の会だよと答えた。ええ何だって。聞き返した私のシャツの袖をくすぐったいものがおりてきたので、カフスをはずして覗き込むと小さな蛾が頬に当たった。一瞬目の前に自分の目鼻が壁の模様のように立ちふさがった気がした。めちゃめちゃに飛んで逃げていく虫を見送って、私は手の中で消えつつある泡を見つめる。雨の音が大きくなっている。さあさあもう一杯と瓶がのびてきたので、しだいに店の雰囲気にも呑まれて私は何杯目かをコップに受けた。遠くに窓が見える。垂れ下げた日覆いと思えた物がちらちらと動き、入れ替りに街灯の白い光がさし込む。あの動きには見覚えがある。長袖の奥が再びくすぐったくなった。
投稿者:kazuto 2009年07月21日 12時18分
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