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『妹』/峯岸可弥

 妹は僕と母との間に出来た子供で僕からすると本当は娘にもなるのだけれども法律上の問題で妹という事になっている。妹が僕の子を身篭もってしまったので今僕は姉と母しか相手に出来ずにいるのは仕方ないとは言え残念ではあるけれども生まれてくる子供がどんな子供になるのか楽しみだ。僕は子供好きだ。
 姉は勿論僕の娘という事はないと思うのだけれどもよく判らないし余り興味もない。僕はただ自分が姉の息子でないと聞かされているのでそれを信じている。姉が知らない男を家に連れてきた時があって抱かれているのを覗いた。その後僕は妹を抱いた。何度も抱いた。
 母は年の割には綺麗な人だと思う。でも母を抱くのはそろそろ辛い。しつこいのだ。家族で抱き合うことは全く悪くないし寧ろ自然な事だと言われて母に抱かれたのは中学の頃だ。初めてだったから夢中になった。母はその結果子供が出来たら育てば良いと僕の首を撫でた。母が妊娠してからは母の前で姉を抱いた。
 僕は母と姉と妹しか女を知らない。僕にとって唯一の救いは父親が誰か判らないという事だ。僕は僕なのだ。

投稿者:takazawa 2010年07月21日 10時50分

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コメント

最後の一行に、作者一流の強烈な反骨心(イロニー)を感じる。
筒井康孝は、近代文学の大きなテーマのひとつに「アイデンティティーの喪失」をあげている。また京極夏彦は、玄侑宗久との対談で「私は私」のような近代的自我がもたらす現代病的な閉塞感に警鐘を鳴らしている。それは、スピノザの「規定することは既定(否定)すること」に近い見解である。
この作品で、「僕は僕なのだ。」で物語を閉じた作者の真意はどこにあるのだろう? それは、おそらく「ソクラテスは毒杯をあおることで、自己のイロニーを貫徹させた」と言った三島自身の最期のように、この自己完結で、峯岸可弥は、「怪談とは何か?」の問いにひとつの答えを出したのではないのだろうか。すこし大げさに言えば、文学的自決を果たしたのではないのだろうか。そんな気がする。
フラグメンタル、メタフィクション、マジックリアリズム、エルロイ文体を用いた小説のゲーム化。ポストモダン文学としての掌編(超短篇)怪談の可能性を追求し続けてきた作者による、あまりにも唐突な幕引き。
狂った血の告白が、折口信夫が唱える資格としての「神の嫁」へのアンチテーゼとなり、意識の流れを描いた散文詩へ、やがて創世神話的な寓話へと昇華していく。
怪談の定義については、専門家の見解に任せることにするが、すくなくとも私は、この作品がたまらなく怖かった。以前にも書いたことであるが、この作者は、読み手の価値観、常識、そして倫理観さえも、簡単に裏返してしまう。目の前に突きつけられたゆがんだ鏡に映る饗宴を、自分のことだとは気づかずに眺めている。狂いきった廃墟で快楽にふける人物が自分自身であることに気がついたそのとき。我々の足元は、音を立てて崩れ始める。ブラックアウトの瞬間、耳元にあの言葉が聞こえてくる。そう、僕は僕なのだ。

投稿者 kazusa.m : 2010年07月23日 14:46




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