『廃屋』/我妻俊樹
夫が留守だという話を信用してついていった。ほかに人も車も通っていないけれどただの住宅地に見える。どの家からもテレビの声が漏れ、前を通りかかるたび同じ洗剤のCMが流れているようだった。白さはうれしい贈り物、しつこい汚れさようなら。耳に残っている歌を何度も聴いたように錯覚したのかもしれない。油断すると距離ができて、生け垣の角を曲がりかけている女の肩が見える。あわてて駆けていくとそこに曲がり角などなく、みごとに整えた山茶花が先へ送られている。女はいつのまにか開いた日傘の下でこちらをうかがっていた。目鼻のあたりが陰になっていて、どんな顔だったのか思い出せない。道は階段坂にかかって両側に竹薮が迫っている。女のいたあたりに着く頃には、日傘は頂上の家の玄関先で閉じられ、犬の吠え声が後をひいた。坂の上は墓地だった。通り抜ける道が砂を浮かせ足音をいちいち滲ませるようだった。家は思いのほか遠くに、墓を出たところで二軒の廃屋に挟まれて建っている。廃屋は窓が割れたままにされているのでそうとわかるのだ。右の家の屋根に犬が繋がれていて、私に気づくとふたたび吠え声をあげはじめた。しかし足元の斜面に何度も足を滑らしそうになるので、重そうな鎖のたるみが犬をぶらさげた重みで張り詰めるところが目に浮かぶ。犬の声はおびえを含んでいた。番をさせるにしてもあんなところに繋ぐ理由がわからない。吠えながら腰が震え小便を漏らしている。近づくにつれ二つの廃屋のあいだはだんだん狭まっていくように感じた。そこにあると見えた家は廃屋の隙間を抜ける道をさらに引っ張って奥のほうにあり、山の影が雲のように速い動きで家を沈めてこちらに迫ってきている。あたりが日陰に変ったとき女の声に呼ばれた気がした。声は廃屋から聞こえたらしいが、人間の言葉を喋ったわけではなく、一旦そう思うと、もう犬の声でしか女の話を思い出せなくなっているのに気づく。
投稿者:kazuto 2010年07月21日 10時49分
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